華厳経

2014/12/20

意訳 華嚴經(2)

華厳経 : 新訳
原田霊道 著
北斗書院
昭和11
国会図書館近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/969452
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解説(2)


華嚴經は詳しくは「大方廣佛華嚴經」と云ひ、原名をマハーバイプラヤ ブッダ ガンダ ビユーハ スートラ(Mahavaipulya buddha ganda vyuha sutra)と云ふ。
西藏譯にはアバタムサカ(Avatamsaka)とし、ニポールの本はガンダビユーハ(Ganda-vyuha)となつている。

大方廣には種々の意義を含むも、要するに廣大無限の意味、佛は理想を示し、華は自性清浄の心(大宇宙の實體)を表はし、嚴は實行體現すること、故に「無限廣大の宇宙の實體を學行し、體現するみ敎」と云ふことである。

此經典の成立年代に就ては明確の知識をもつてゐない。
たゞ釋尊の滅後、五百年頃(西暦第一世紀)より盛に行はれた佛敎の復興運動に伴ふ產物であることは想像される。
釋尊の滅後、流を汲むものゝ情として遺法を重じた結果は、表面の規律に拘泥してその精神を忘れ、たゞ遺法の分析解釋を事とするに至つた。
次でこの佛説細分の結果は知識の分析を重じ、現象の分析論議によつて宇宙人生の總ての問題を解決し得る、ものとして、遂に佛敎の本質である成佛でさへ否定するに至つた。
これが哲學的にも宗敎的にも佛敎を偏狭に低級にした所謂小乗敎である。
此偏執を打破し、佛陀の眞精神を發揮せんが爲めに、大乗佛敎の復興運動は起り、而して幾多の經典論書の著述編纂は行はれたのである。
本經典の如きもその時代の偉大な佛敎の思想家が佛敎の本義を明かにせんとして、佛陀自覺の内容を開顯せられたものであらう。

此經の成立地に就ては支那翻譯の歴史より推論して、于闐(Khoten)と云はれてゐるが、于闐國の歴史及びその佛敎を語る唯一の權威である西藏文于闐國史(西紀一一八三の著述)には、何等華嚴に關する記述を見ない。
果たして何處にて成れるや淺學の身の知るよしもない。



華嚴經の支那翻譯は佛敎が傳はつて(西紀六七)間もなく、支婁迦識(翻譯期間西紀一四七─一八六)によつてなされた經の「名號品」に當る兜沙經の譯出に始まる。
爾後數代に亘つて行はれ、賢首の「華嚴傳」(華嚴の歴史)には三十五部の多數が列擧してある。
然しこれ等は經の一章(品)又は一部分の抄譯で、完本ではない。
その現に存するものゝみが、二十四部もある。
いまは煩を避けて華嚴經の中心をなす「十地品」と「入法界品」との異譯を擧げよう。

漸備一切智徳經 五 卷(十地品) 西晉 竺法護
十  住  經 十三卷(同 上) 西晉 聶道眞
十  住  經 四 卷(同 上) 後秦 鳩摩羅什、佛陀耶舎
佛説 十地 經 九 卷(同 上) 唐尸 羅達摩
羅 摩 伽 經 三 卷(入法界品)西秦 聖堅
文殊師利發願經 一 卷(同 上) 東晋
大方廣佛華嚴經入法界品 一卷(同上)唐 日照
華嚴經普賢行願品 四十卷(同 上)唐 般若三藏
普賢菩薩行願讃 一 卷(同 上) 唐 不空

完本の譯出は前後二囘のみである。

一、大方廣佛華嚴經 六十卷
 北天竺の人、佛駄跋陀羅 Buddhabhadra─覺賢(西紀三五九─四二九)が、楊都道場寺に於て、義凞十四年三月(四一八)に業を始め、元凞二年六月(四二○)に譯了した。

二、   同    八十卷
 于闐の人、實叉難陀 Siksinanda─學喜(西紀六五二─七一○)が京都大遍空寺に於て、唐の證聖元年三月(六九五)に譯を始め、聖暦二年十月(六九九)に了る。

前者を「六十華嚴」、又は「晋經」と云ひ、後者を「八十華嚴」、又は「唐經」と云ふ。
「四十華嚴」と云はるゝものは支本で、前に掲げた「入法界品」の異譯中、般若三藏譯の「華嚴經普賢行願品」を指し、完本ではない。
これをまた「貞元經」と云ひ、ニポール國の九部大經註の華嚴經はこれである。

華嚴經の原文としては今僅かに其一部分しか残つて居らぬ。
完全のものとしては十地品 Dsabhumisvara と「入法界品」Gandavyuha 丈で、それに後者の結文である六十二頌の「普賢行願賛」 Bhadracari pranidhana が單行本として現存して居る。
然し一部分としては「賢首品」の大部分の偈頌が「大乗集菩薩訡」 Siksa Samuccaya の中に引用されて、原文の俤を窺ふことが出來る。

此等原文の古寫本は、パリの國立圖處館や英國の皇立亞細亞協會文庫、ケムブリヂ大學文庫、カルカツタ亞細亞協會書庫等に多數珍藏され、就中英京亞細亞協會藏の「行願品」梵本は、西暦十世紀頃の書寫で非常に有名なものである。
吾國にも東京及び京都の大學に高楠榊兩敎授の盡力で此二品の梵本が備へられるに至つた。

西藏藏經の經部に於ても此經の譯本が、該部第三門 Phal-chen として六凾二千二百葉の浩澣な大冊となつて收められて居る。
新譯華嚴(等經)の三十九品に對し四十五品の分章であるから、内容は多少增減があることが分らう。



同じく完本なるに、晋經は六十卷三十四章、唐經は八十卷三十九章より成り、兩經の卷帙、章品に相違がある。
また説法の會場に就ても前者は八會なるも、後者は九會である。
これは唐經は晋經に於ける盧遮那品の一章を五章に開き、更に「十地品」の次に「十定品」の一章を加ふるが故に晋經に比して五章を增加し、また十定品の始めに「普光明殿に於て」とあるによつて、以下の十一品を十地品と別の一會として、九會とするのである。
今六十卷の經によつてその組織を概觀しよう。

本經典は説法と云はんよりも、佛陀の自覺の内容を戯曲的結構をもつて、表現したものである。
その結構は八場より成り、一場毎に主人公を異にしてゐる。
いま此れを圖示すれば

第一場 寂滅道場   二 章(世間淨眼品、盧遮那品) 普賢
第二場 普光明殿(一) 六 章(名號品、四諦品、光明覺品、明難品、淨行品、賢首品) 文殊
第三場 忉利天宮   六 章(須彌頂品、妙勝殿説偈品、十住品、梵行品、初發心功徳品、明法品) 法慧
第四場 夜摩天宮   四 章(夜摩天宮自在品、夜摩天宮説偈品、十行品、十無盡藏品) 功徳林
第五場 兜率天宮   三 章(一切實殿品、菩薩讃佛品、十囘向品) 金剛幢
第六場 他化自在天宮 十一章(十地品、十明品、十忍品、阿僧祇品、壽命品、住處品、不思議品、相海品、小相品、普賢行品、如來性起品) 金剛藏
第七場 普光明殿(二) 一 章(離世間品) 普賢
第八場 重閣講堂   一 章(入法界品) 善財

説會としては、かく八場なるも、普光明殿は二囘、使用されてゐるから、所としては七處で、これを人三天四の七處と云ひ、通常、華嚴經の説相を、晋經は七處八會、唐經は七處九會と云はるゝ所以である。

各場に活躍するあまたの人物は、悉く佛陀盧遮那(釋尊)の性能を人格化せるもので、當然、盧遮那佛に統一せらるべきものである。
故に表面殆ど佛陀の活動と見られないが、その背景には恒に法身盧遮那佛が活躍してゐる。
それは經典の一の事件を叙するに、必ず「佛の神力(みちから)を承けて」と云ふによつても、用に首肯されよう。
また人界より天界へと、場面の變化し行くのは、無限に眞實を求めて止まぬ向上心の進展を表現するものである。



各章の梗概と前後の關係とは、その章の始めに簡短ながら述べたから省略して茲にはたゞ一經の歸結に就て一言しよう。
第一場は佛陀の正覺成就に由つて宇宙は新しき生命を得る卽ち宇宙を擧げて佛陀だるの相を明かにし、第二場には信仰を讃へて發心求道を勤め、第三場には理解の法を説き、第四場には實行を、第五場には一切の行爲の統一囘向を述べ、第六場には眞證の生活を明にし、第七場には信仰理解、實行、囘向、眞證の内容を再び概説し、第八場には此等の聖者の學道を體現する善哉童子の急送の旅が叙してある。
乃ち要は信解行證の四に概括される。
此叙述は淺深次第して絕對に對する吾々の向上進趣を明かにするものである。
華嚴經が單なる哲學として觀念の遊戯に終るならば止まんも、常に宇宙萬象をあげて仏陀たるの實感を主張し、發心求道の現實生活に正覺の圓現を期する華嚴經にては更に一歩を進めねばならぬ。
絕對と吾人との合一は唯信仰の體現にある。
故に「入法界品」の最後に、自他の無限の向上を永劫に念願し、修業する本願佛たる阿彌陀佛に歸依すべきことを敎へたるは實に華嚴經に千鈞の重きを加ふるものである。
これ宗敎の實践としては此經を逆觀せよと主張さるゝ所以である。

かくて信解行證の四は遂に自己の眞實求道の一心に歸結さるべきである。
眞實求道の一心は内的には仏陀の自覺、仏陀の自覺は現はれて宇宙の萬象となる。
卽ち自他一切の差別、あらゆる隔歴不同を去り、自他相依り相助けて各々その生を完ふする渾然たる一體としての大自然の活動、これが吾が一心となり、佛陀とならねばならぬである。

寸時の撓みもなく、無限に自他の向上を念願し、實行する此志願は、やがて、阿彌陀佛が一切の生類を攝取し盡さんとする本願である。
實に此無限向上の學道こそ、萬有の永遠不滅の生命である、宇宙の本性である。
茲に理想と現實との一致がある。

萬有の協調偕和する法界の風光を掬するものは、そこに偉大な力を感じ、報恩感謝の無私の活動が現はれる。
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2014/11/27

華厳経の写経(テキスト化)をはじめてみた

最近「華厳経」にハマってます。
とはいえ、華厳経って60巻ものと80巻ものがあるらしく、直に経典に当たるのも無謀かと思われ。
取り敢えず文庫本の解説から読みました。

無限の世界観「華厳」―仏教の思想

一度通読して現在2回目。
あまりに膨大な世界で、「華厳経ってこんなお経だよ」とかぜんぜん説明できない。
アウトラインさえ理解していない。(^^ゞ

なんとなくな理解では、華厳経はブッダの悟りの内容を現したものらしい。
この大宇宙はブッダそのものの顕れであり、この地球も地上の万物も、こうして生きているぼくたちも、そのブッダの顕れである、と。
この存在自体がブッダの表現であり、ブッダでないものなどひとつもなく。
歓びや美しさとともに苦痛や醜さも含む、多様性に富んだ有機的統一体としての存在、大宇宙。

そのブッダの悟りの内容を体得していくプロセスが描かれているという華厳経。たぶん

経典の内容には「おお、すげえ!」という文章がいっぱいあるにもかかわらず、論理的にはぜんぜん掴めてない。
解説本2回目なのに。

というわけで、困った時の国会図書館デジタルライブラリー。
探してみたらありました、「意訳 華嚴經」。

はじめの方を読んでみたらかなり面白いので、これは読み返す時のことを考えてもテキスト化しておくのが吉だな、というわけで、ぼちぼち写経テイストにテキスト化を進めています。遅々とした歩みだけど

少しまとまった量になったらアップすることにし、今日は目次と解説の頭まで。


華厳経 : 新訳
原田霊道 著
北斗書院
昭和11
国会図書館近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/969452
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凡例

一、華嚴經は佛敎の經典の中で、最も浩澣なもので、然も殆ど象徴寄顕顯の表現形式をもつて終始してゐるから、その歸趣捉へにくい。
卒然としてこれに接する時は、荒誕無稽夢物語を見るの感がある。
然し精讀沈思一たびその表現せんとする經の原意に觸るれば、その雄大な結構と高遠な哲理と深刻な宗敎的體驗とに思はず、驚異の眼を睜るであらう。
今釋する處は量に於て二十分の一にも足らず、たゞ結構梗概を述ぶるに止まつて、殆ど中心の思想さへ現はし得ないことを心から遺憾とする。
一、本書は「六十華嚴」に據り、「十地品」を中心として、前後の各章は同品の内容を補ひ、一經の梗概結構を示す程度に、極めて大膽な抄譯を行つた。
故に「十地品」は前文を繰り返す偈を除く他は、殆ど洩さず譯した。
「四十華嚴」の最後の一節は經の中心思想に重大な關係があると信じて、これを終りに附加しておいた。
一、觀察體驗の淺深精粗現はす三昧や、宇宙の実體即ち佛身を表現する種々の相を譯することを避けながら、無限無盡を表はす十數を、時に略するなど、態度の不統一は譯文の拙劣と共に、筆者自身も鮮なからず不滿足である。
一、本經典は一面、偉大な象徴文學で、言々句々に深大な意義を含ましてあるから、本書の如き形式が、經の精神を現はすに不適當であることは言ふまでもない。
筆者は自己のその器にあらざることを告白して、本書が玉を瓦としたことを衷心より慚愧してゐる。

本書に於ては文學博士椎尾辨匡先生が深い同情をもつて、種々御指導下さいました。
本書が幾分でも本叢書刊行の趣意に副ふところがあれば、それは總て先生の指導の賜である。
茲に謹で感謝の意を表する。

大正十一年二月
原田靈道 識


目次


解説

寂滅道場
 第一 世界の喜(世間淨眼品)
 第二 信仰の對象(盧遮那品)
     蓮華世界と普荘嚴童子

普光明殿會
 第三 佛陀の名稱(名號品)
 第四 四諦の命辭(四諦品)
 第五 佛の光明(如來光明覺品)
 第六 疑問の解決(菩薩明難品)
 第七 信仰の實際化(淨行品)
 第八 信仰の力(賢首品)

忉利天會
 第九 妙勝殿の集ひ(佛昇須彌頂品)
 第十 佛徳の讃頌(妙勝殿上説偈品)
 第十一 理解の階梯(十住品)
 第十二 發心と眞證(梵行品)
 第十三 求道の力(初發心功徳品)
 第十四 理解より實行へ(明法品)

夜摩天宮會
 第十五 體驗の生活(夜摩天宮自在品)
 第十六 體驗の力(菩薩説偈品)
 第十七 體驗の過程(十行品)
 第十八 體驗の内容(十無盡藏品)

兜率天宮會
 第十九 兜率天の集ひ(一切實殿品)
 第二十 佛徳の讃頌(菩薩雲集讃佛品)
 第二十一 囘向の生活(金剛幢囘向品)

他化自在天會
 第二十二 眞證の生活(十地品)
 序事
  魔尼殿の集ひ
  聖者金剛藏の靈徳
  正法の尊貴
  佛の加護

 一、入聖の喜(歓喜地)
  無限向上の覺道
  入道の喜び
  心地の淨化
  聖者の十大願
  布施の徹底
  眞證の第一相

 二、三業の淨化(離垢地)
  會衆の讃仰
  十種の眞實心
  十種の善道
  三乗の十善道
  十惡の止念より救濟へ

 三、眞相の達觀(明地)
  會衆の讃仰
  十種の深心と現象の達觀
  求法の熱誠
  八種の精神修養法
  眞證の第三相

 四、眞智の熾烈(焰地)
  會衆の讃仰
  十種の實體觀
  三十七科の修養法(三十七道品)
  精進の種々
  眞證の第四相

 五、靈徳の增勝(難勝地)
  會衆の讃仰
  現象の平等
  四種の眞理(四諦)
  敎化の手段
  眞相の第五相

 六、自由顯現(現前地)
  會衆の讃仰
  十種の平等觀
  萬有の生成觀(十二因縁)
  三種の自由境(三解脱門)
  眞證の第六相

 七、靈能の發揮(遠行地)
  會衆の讃仰
  十種の妙行
  諸地の比較
  無限の靈能
  眞證の七相

 八、無欲の活動(不動地)
  會衆の讃仰
  眞理の體得
  無慾の活動
  國土の淨化
  生類の淨化
  萬有即ち佛身
  智徳靈能の優越
  不動の名に就て
  眞證の第八相

 九、完全なる智慧(善慧地)
  會衆の讃仰
  敎導者の學行
  敎化の完全
  萬靈の大指導者
  眞證の第九相

 十、靈光洋々(法雲地)
  會衆の讃仰
  學行の成就
  佛位繼承の儀
  靈光洋々
  法雲の名に就て
  佛と聖者の靈能
  眞證の第十相
  海と山と魔尼寶珠
  聖者の證明

 第二十三 眞證の特能(十明品__住處品)
  十種の知力(十明品)
  十種の智體(十忍品)
  數量と得能(阿僧祇品)
  時(壽命品)
  處(住處品)

 第二十四 佛陀の聖徳(不思議品__小相品)
  佛のみすがた(如來相海品)
  佛の光明(佛子相品)

 第二十五 普賢の學行(普賢行品)
 第二十六 正覺の内容(性起品)

普光明殿會
 第二十七 普賢の復説(離世間品)

重閣講堂會
 第二十八 眞理證入の道(入法界品)
  祇園精舎の集ひ
  求道の旅


現代意譯 華厳経


原田霊道 譯著


解説


華嚴經は釋尊自覺の内容を明かにする經典である。
故に釋尊の成道を主題として成道後に二七日に菩提樹下寂滅道場を始め、七處に於てとかれたとするのは表現の一形式で、實は宇宙に遍滿して、時處に束縛せらるべきものではない、萬象はすべて華嚴經の内容を語るものである。

華嚴經の精神を最もよく發揮した賢首は、此の旨を明かにする爲めに、華嚴經に廣略六種の別(著書によつて異なる、今は「探玄記」に依る)を見て、その内容の廣漠なることを示した。
その始めの「恒本」は、宇宙を擧げて常恒不斷に佛の正覺を語るものとして、山川河海を悉く佛陀正覺の内容即ち華嚴經とするのである。
これが眞の華嚴經で、假りに文字にして表はして大本、上本、中本、下本、略本等とするも、その下本にしてなほ十萬頌もあり、支那に翻譯された吾々の手にする六十卷、八十卷の經は最後の略本であると。
もつてその内容を知ることが出來る。
この經典論は最もよく佛敎經典の本質を表はしたもので、華嚴經に限らず總ての大乗經典に就て論ぜらるべきことである。

華嚴經が宇宙の全的活動を内容とする佛陀の自覺を顯現するものとすれば、その内容は念々に擴大され、充實さるゝもので、決して六十、八十乃至十萬頌に限らるべきでものでない。
故に華嚴經は單に第一説法として、釋尊一代の敎説を該攝するのみでなく、未來永劫を盡して、人類救濟の指導たる思想は悉く佛陀の自覺として是れを包含するものである。

これ文字に表はし、口に述べるときは、その意義を限定するものであるから、これ等によつて無限の内容を説明することは出來ない。
此の意味は經典の至る處に現はされて、佛は一事項の説法を終る毎に、必ず「無量の時を費すも、遂に説き盡されない」と繰返してある。
故に吾々は華嚴經を讀み、これを體驗するに、「これぞ華嚴の内容、これぞ佛陀の自覺」なりと、限定的に思惟してはならぬ。
すべての經典は「恒本」華嚴經の片鱗隻影なりと思ふべきである。
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