内丹学

2016/07/08

〔復刻版〕『陰符經』遠藤隆吉・松本文三郎 Kindle版発売

とある解説書に「相克する宇宙の理法を盗む」という副題が付くくらい、なんだかとってもクールな『陰符経』。
昔から、仙学や内丹学において非常に重んじられて来た古典なのですが、たった400文字前後の経典だけにとっても難解。

特に日本では、その解説書を見ることがほとんどなく。
ここに明治44年遠藤隆吉著『陰符經』と、明治40年松本文三郎講述『支那哲學史』中の一編「第二章 第二期に於ける哲學思想の變遷 陰符經」をセットにして電子書籍で復刻することにしました。
『陰符経』自体の難解さと、明治期日本語の難解さが相まって、繰り返し読まないとなかなか概要すら掴めませんw

とはいえ、繰り返し読むことを想定して電子書籍化したわけで、今後もスマホやPCで何度も読み返すつもり。
古書を読む愉しみは、繰り返し読みつつ、最初はモワ~っとおぼろだった印象に、徐々に色や形がつきはじめていくところ。
読書百遍意自ずから通ず、を期待w

Coverthum

〔復刻版〕『陰符經』遠藤隆吉・松本文三郎 \500(Amazon)


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2014/08/13

清時代の内丹家、劉一明の内丹が面白そう

清時代の内丹家に劉一明という人がいます。

以下は石田志穂さんという方の研究概要。

ちなみに、以下には「性」や「情」という言葉が出て来ますが、劉一明さんは性命双修を提唱しており、「性」とは心の本質のことで霊性(陽)を表し、「命」は身体の本質のことで真情(陰)を表しています。

・KAKEN - 明清期における道教の暝想法(内丹)について(03J00153)
http://kaken.nii.ac.jp/d/p/03J00153.ja.html
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宋代までの内丹における「性功」とは一般的に、欲望を除去して静浄な心境を保つという仏教的精神修養であった。
しかし、宋学の影響を内丹も受け、明清に至ると「性功」を「気質の性」が気の偏倚のために偏ってしまわないよう保つこととする例があらわれた。
ただし、多くの内丹家は、「理」には言及せず、あくまでも「気」に即する「気質の性」のみを「性功」の対象としていた。
内丹思想は純粋な理念としての「理」へと向かう可能性を帯びつつも、「気」の操作体系である以上「気」を越えられないというジレンマを抱えていたのである。

このような思想的状況にあって、清の劉一明は、「陰陽交合」を陰気と陽気の交合とはとらえず、「性」と「情」の交合とした。
つまり、劉一明は煉気に取って代えて、修性を内丹の主要功法としたのである。
内丹はもはや「気」の操作体系ではなくなり、人間の精神のみを対象として操作し、それを修煉するものとなったのである

劉一明が最終的に目指すのは、「天賦の性」(朱子学における「本然の性(理)」にあたる)のみの人間となること、人間の「理」化であった
人間の「理」化とは、具体的には人間が気の影響を受けない純粋な理念としてとらえられることを指す。劉一明は「玄竅」という論理的概念装置を設定し、その力動性によって、気としての人間を理念・思惟としての人間へと位相転換・次元移動するのである。
劉一明は、人間の質料的気としての側面をもはや重視せず、人間の本質を純粋な理念・思惟それ自体にあると考えたのである。

明清思想史は、ふつう心学から経世致用の学へ、ないし理学から考証学へと転換したと説明されている。
しかし、内丹思想の世界においては、人間の精神活動・知的営為を純粋化・抽象化して考える思索・思弁が展開されていたといえるのである。
しかもそれは禅や心学のように直観・直覚に帰結するものではなく、いくつかの概念装置を準備しつつ、論理的に方法として追求されるものであった
明清の思想には、従来考えられてきた思想史的展開とは異なる、もう一つの道が存在していたのである。

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『内丹はもはや「気」の操作体系ではなくなり、人間の精神のみを対象として操作し、それを修煉するものとなった』

内丹というと、小周天や大周天を用いる気功的なものを想像してしまいますが、意念も用いず気の操作も行わない、純粋な意識や精神の理解と修煉。
実際にはどういうものなのか、興味津々です。

上記研究の論文が読みたいと思ったのですが、論文が掲載されている研究誌が見つからなかった、のかな。
随分前に探したので忘れましたが、その後劉一明の著作集である「道書十二種」を購入。

が。
中国語なのでなかなか進まず。(^^;
劉一明著「修真九要」が面白そうなのですが、九要あるうちの第二要の途中までしか訳せない。
難しい~。(^^;;

その後、Web上で劉一明著「金丹四百字解」の日本語訳を見つけ、繰り返し読み、なんとか劉一明的内丹のアウトラインが薄ボンヤリと見えてきたかも、でも、ほとんど見えてないよね、みたいな今日この頃。

・金丹四百字解
http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/jindan400/jindanA_U+J.htm

実は「金丹四百字解」は、本文の他に「註疏四百字真義歌」という歌訣と「学人二十四要」「丹法二十四訣」という要訣が付属しています。
今はその補足を訳しているところ。

劉一明的内丹が薄ボンヤリ見えてきたかも、と書きましたが、これでも格段の進歩なのです。
数回読み返しただけのはじめは、文章としては読めるものの、イメージというか感触がまったく浮かんで来なかったんですから。
今は、よくわからないながらも、所々「お~、カッコイイ~」などと思えるようになってきました。

ちなみに「金丹四百字解」は劉一明著作集「道書十二種」には掲載されておらず、なんとWeb上にアップされていました。
しかも劉一明の全著作(と思われる)が。

ネット時代とは何と有り難いのでしょう。

・指南针(道书十二种)
http://www.daoism.cc/dandao/fdjd/znz/znz.htm

そのうち、「修真九要」の訳したところやその感想、「金丹四百字解」の感想などをアップするかも。

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