十三佛曼荼羅主尊:虚空蔵菩薩
以前、国会図書館の近代デジタルライブラリーにて「虚空蔵菩薩」を検索していたらヒットした「十三佛講話」。
新密教の富田学純という人の大正時代の著書なのですが、以前は「新密教 富田学純」で検索して、かなり詳しいことが調べられたはずなのに・・・。
今検索してみも、あまり詳しい内容がヒットしません。
確かWikipediaにも載っていたはずですが・・・。う~む
ともあれ、せっかく我が家に虚空蔵菩薩様が来てくれたので、新密教的虚空蔵菩薩をメモ(テキスト化)しておくことに。
自己曼荼羅という概念も大好きですし。
・「十三仏講話」富田学純著(国会図書館:近代デジタルライブラリー)東京:加持世界社,大正3年 より
第4章 自己曼荼羅弘法大師の語に「夫れ佛法遙かに非ず、心中にして則ち近し、真如外にあらず、身を棄てて何(いづく)んか求めん」とあるが、本尊を壇上に安置して之を崇拝し曼荼羅を信仰の対象として外に荘厳する所以のものは是れ自己に具有する無尽荘厳を開顕して茲に自己曼荼羅の確立を必要とするからである。
大日経に「曼荼羅を図画せよ自身を大我と爲す」とあるは即ち此自己曼荼羅である。
元来自己には無限の存在がある無辺の力量がある。
無盡無盡の荘厳せられたる宝蔵がある。
換言すれば自己なるものは宇宙現象の全分を具有するのである。
之を広充すれば自己は宇宙万象の主体であると云い得るのである。古哲学者は我は考う故に我ありと喝破して其の哲学を立脚地としたが、自己なるものの廃滅せし時如何に客観が壮大なるも其の客観は何等の意味を有せないのである。
即ち自己なるものが亡失すれば宇宙も同時に其の存在の意義を亡失するのである。
大日経には其の趣を説いて善男子諦(つまびらか)に内心曼荼羅を聴け
秘密主、彼の身地は即ち是れ法界の自性なりと云うて居る。
佛教の多くは此れ自己の無限の権威を無我の大我と云う語に依りて表明して居るが、吾人は其の意義を明らかにする爲に是を自己曼荼羅と称したいのである。
然らば吾人は宇宙の存在を認識するに先だって先ず自己の存在を認識すべきである。
社会の存在を究明する前に先ず自己の存在を究明すべきである。
換言すれば吾人は先ず自己を内観し、確認し、反省し、整頓し、向上し、愛撫し享楽し而して後に始めて外界に発展広充すべきである。……以下略……
第5章 虚空蔵菩薩元来密教は極端の象徴主義であるから、金剛界胎蔵界両部不二と云うことになれば両部不二の深旨を象徴すべき何物かが必要となって来るので、此の必要に応じて顕れて来たのが、即ち如意宝珠である。
密教の唯一の最尊最貴の宮中後七日御修法の本尊が、金剛界大日如来でもなく胎蔵界大日如来でもなく、如意宝珠であり、密教の最極深秘の秘法は如意宝珠の法で、密教の最極秘印の無所不至印は三弁宝珠と観するのが大阿闍梨の口傳であるとするのでも明らかな如く、如意宝珠は密教の理想物と化したのである。
そこで大日如来より伝来の如意宝珠が埋められた、大和国室生山精進ヶ峰が、闔宗(こうそう)の僧侶に依りて毎朝拝礼供養せらるるに至ったのである。
然るに十三佛曼荼羅の主尊たる虚空蔵菩薩は此の如意宝珠を最も現実的に人格化したる本尊である。……略……
吾人常に思いらく人には両面を有す。
一は霊的方面で一は肉的方面である。
古来の宗教なるなるものは此の両面の観察を誤りて、単に霊的方面のみを善良とし佛とし神とし、人を罪の子と卑しみ、煩悩妄想の衆生となし、其の肉的活動を全く無価値の如くに主張し来たったのである、
此の時に当たって功利主義を唱道し人間欲望を以て自然の衝動となす新思想を見るや、全くの宗教の破壊の如く道徳の廃滅の如く騒ぎ廻るものがある。
併し此等の宗教は全く因習に囚われたる一種の迷妄で、決して正しい宗教に対する見解でない。
密教の立場から見れば人世の欲望なるものは適度に発展し得るは決して罪悪でも不善でもない。
密教の金剛薩埵は大欲、大觸、大愛、大慢の大快楽三昧に住するも此の意に外ならぬのである。
故に密教の眼から見れば人世に断ずべき煩悩もなく、滅せしむべき罪悪もないのである。
只人世の幸福の障礙となるものあらば之を利導して幸福の材料たらしむべきである。
此の人世の幸福即ち是れ如意宝珠の三昧で、是を人格化したのが虚空蔵菩薩であるとせば、此の菩薩は実に人世の理想的本尊である。
今日の通俗信仰に於いても此の菩薩は多く開運の神として崇拝せられて居るのも此の根本思想の流れであるまいか。……以下略……
第七章 十三佛各説第十三節 虚空蔵菩薩
虚空と云う語は昔は広大無辺の唯一の喩えである。
蔵とは含蔵のことで、此の菩薩は虚空の一切森羅万象を含蔵するが如く其の徳の広大無辺なるを顕わすの名である。
今の語では宇宙菩薩と云った方が通用するかも知れない。
宇宙蔵であればこそ唯一絶対の妙実在であると云い得るので、十三佛曼荼羅の主尊となし得るのである。
此の事を明瞭に説いて居るのは密教最極深秘の瑜秘経(ゆぎきょう)の金剛薩埵吉祥品で、其の中に青黄赤白黒の五色の五大虚空蔵を説いて居る。
此の五大虚空蔵は即ち宇宙を人格と見たる大日如来の五智の作用で、全く大日如来を現実化したものである。虚空蔵菩薩は右の手に智恵の利劍を持ち左の手に福徳の如意宝珠を載せてござる。
是れ佛教で云う福智の二門の象徴である。
福徳とは現実で智恵とは理想である。
然らば虚空蔵菩薩は理想と現実とを調和し之を具体化したる象徴であると云い得るのである。
此の右手の智恵の徳を開いたのが、檀那、持戒、忍辱、精進、禅定の五波羅蜜である。
故に虚空蔵菩薩は此の十波羅蜜菩薩を眷属としてござるのである。十三佛の主尊たるは此の理想と現実を調和して具象化したる点に存するので、宇宙を人格化したる大日如来を通じて此の菩薩を見て始めて虚空蔵菩薩の広大無辺の新生命は活動するのである。
然るに惜しい哉今日の虚空蔵菩薩に対する信仰は京都の嵐山の虚空蔵菩薩を始め、十三歳の童男童女参詣して智恵を貰い幸福を祈るの外、密教者間に聡明を求むる爲に求聞持法の本尊として尊崇せられて居るのをみて、此の真意義を発揮するもののないのは頗る遺憾である。……以下略……
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