« 2010年3月 | トップページ | 2010年5月 »

2010/04/28

つぶやきブログを作ってみた

ツイッターの140文字ではうまくつぶやくことが出来ず。
とはいえ、このブログのように一般的な話題を書くブログ(と自分では思っているみたい)ではなくて、あくまで個人的な感覚をつぶやける場がほしくなり。

WordPressというものを使って自前ブログを作ってみました。
Pukiwikiもよかったんだけど、現状では今ひとつ使いにくくなったので。

これで、これまで他の治療師さんたちとは共有出来なかったような個人的な治療の場で感じている感覚も、自由に書ける、かもです。

・按摩師のつぶやき
http://tao.main.jp/wp/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/04/15

川合清丸「無病長生法」数息観を試してみる

何を調べていたのかは忘れましたが、国会図書館の近代デジタルライブラリーで川合清丸著「無病長生法」を見つけ、PDFファイルをダウンロードし印刷してパラパラと読んでいました。
たぶん、正座とか呼吸法を調べていたのだと思いますが。

以下のページから「無病長生法」で検索するとヒットします。

・近代デジタルライブラリー | 国立国会図書館
http://kindai.ndl.go.jp/index.html

ちなみに、八幡書店から付録の著作も多数合わせた復刻版が出ています。

・白日に昇天した最後の仙人・山中照道大寿真の秘密奥伝を公開!
「仙家秘訣 無病長生法 付録 至道物語」 川合清丸=著


昨日、下半身に重心を落とした呼吸、丹田に気が充ちる感じを味わったので、それに関連した「無病長生法」の中の観念法・数息観を試してみました。


川合清丸「無病長生法」觀念法第四

心は身の本主にして。身は心の影像なれば。此の身を無病長生ならしめむと欲するものは。須(すべから)く先ず斯の心を無事安穏ならしめざるべからず。
凡そ一切の病氣に。斯の心を以て發するものも多ければ。斯の心を以て治むることも亦多からざるべからず。

斯の心の作用に由りては。軽症ををも重く思ふべし。重症をも輕く病むべし。
況や平生無事の日に於いて。斯の心を無事安穏澹湉(たんてん)無爲にし去らば。何の虚隙(きょげき)ありてか。病氣の之を侵すことを得むや。
是れ觀念法の大切なる所以(ゆえん)なり。


此の法を修業する人は。晝夜時間を問はず。腹の空なる時に當りて静室に入り。窓を鎖(とざ)して蒲團を展べ。
枕の高さ二寸五分(※約7.5センチ)なるを其の上に安じて。正身仰向きに臥し兩肩をなだらかに寛げ。兩脚を長く踏み伸ばし。

目を塞ぎ口を閉ぢて。五躰の力みを和らげ。滿胸(まんきょう)の妄想を放下して。

さて惣身の元氣を氣海丹田の處に充たしめて。臍下を鞠の如くに張り詰め。
鼻孔に鴻毛を懸けても動かざるほどの息を。細長く出入し。其の出入の息を數へて。一より十に至り。十より百二至り。百より千に至るべし。

其の間に斯の心其の息に合同して存するが如く亡ぶるが如く。目見る所なく耳聞く所なく。
此の身人間に在りや。虚空に在りや。天上に在りや。人なりや神なりや佛なりや。
生きたりや死したりやをも打忘れて。斯の心の寂然たること虚空と等しからむ。

斯くの如きこと久うして。一息おのづから止まり。湛然として出でず入らざる時。
此の息は八萬四千の毛孔の中より。雲の如くに蒸し霧の如くに散りて謝し去る。

其の時病あるものは五積六聚。氣虚勞役等を問はず。此の息と共に雲蒸霧散し去りて。痕形もなく平癒せむ。
又迷あるものは。百八の煩惱八萬の妄想を論ぜず。此の息と共に雲蒸霧散し去りて。痕形も無く消滅せむ。

此を名付けて數息觀と云ふ。
實に觀法中の王なり。

篤志の行人あり。此の觀法を精修して怠らざれば。歳月を積むの久しき間に。一たびは必ず此の時節あるべし。
尤も最初は此の法の如くに修業して。少しく自得する所あらば。後には行住坐臥とも自在に修し得ることを得む。
勉めよや。勉めよや。


やり方は。
昼夜を問わず、空腹時に蒲団に仰向けに横たわり。

正身仰向きに臥し兩肩をなだらかに寛げ。兩脚を長く踏み伸ばし。

目を塞ぎ口を閉ぢて。五躰の力みを和らげ。滿胸(まんきょう)の妄想を放下して。


横たわったら、目を閉じて全身の力みを和らげます。
「兩肩をなだらかに寛げ」とあるので、まずは一度両肩をギューッとすくめて、ストンと脱力してみます。
1,2度やって、肩を自然で楽な位置に置きます。

「滿胸の妄想を放下し」。
若干胸を反らすように、胸を張るように力を入れて、一気にストンと脱力。
力を抜く時に、胸の中に「ホッ」とした安心感が拡がるようにイメージすると、胸やお腹の中がかなりくつろぎます。


さて惣身の元氣を氣海丹田の處に充たしめて。臍下を鞠の如くに張り詰め。


昨日の丹田に呼吸が充ちる感じには、微塵も緊張はありませんでした。
というか、無駄な力みや緊張があれば総身はくつろがず、どこかしらに緊張が現れてしまいそうです。

ですから、無理をせず、優しく丁寧に丹田あたりに呼吸を充たしていきます。
なんとなく、お腹表面やお腹の両脇、腰の皮膚が、ちょっとでも伸びて充実感があればよしとします。


鼻孔に鴻毛を懸けても動かざるほどの息を。細長く出入し。其の出入の息を數へて。一より十に至り。十より百二至り。百より千に至るべし。


丹田に息が充ちたら、絶対に息苦しくならないように、気持ちのよい程度に、ゆっくりと細く長く息を吐きます。
吸って、吐いて、で「い~ち」と数えました、ぼくの場合。

この数息観をしていると、自然にくつろいでいきますから、息は自ずとゆったりとしてきます。
そして、吸う息と吐く息の間、無呼吸の時間が徐々に長くなります。

ぼくの場合、30数回まで数えたところで、沈没、というか、寝てしまいました。(^^ゞ

でも、眠りから浮上してきた時、心身ともにすごく爽やかに覚醒していてちょっとびっくり。
再度数息観に戻ったのですが、呼吸も沈没以前より滑らかで繊細、身体感覚も明らかにより繊細になっていました。

結局、初回チャレンジは100回程度まで数えたところで終了。
けっこう良い手応えがあったので、またチャレンジしてみようと思ってます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

丹田に気が充ちる時

昨日、友人のだるまさんを迎えて練習会を実施。
練習会といっても特に決まったテーマはなかったのですが、なんとなく最近このブログでも書いていた正座や呼吸に関する練習をしようという主旨。

正座での呼吸や気合い等に関しては、だるまさんが専門家なので彼のレクチャーを受けながらスタートしました。

まずは正座して肩や胸、上半身の緊張をゆるめるワーク。
上半身の緊張がゆるんだところで、背中に手を当ててもらいます。
なにやら丹田に重心や力点が集中するような、そんな手の当て方。
息を吸った時に無理なく丹田付近の下半身に息が充ち、周囲の皮膚が気持ちよく伸びるのが感じられます。

この背中(または腰付近)に手を当ててもらったのは、ほんの数分。
手を放した後でも、息を吸うとき丹田に息が充ちる感覚は継続しています。
ぼくの後は、プラバさんが手を当ててもらいました。

さて、こんな簡単なワークだったのですが。
驚くことに、これだけで空気が一変しています。

視界はクッキリとし周囲のものが鮮やかに見えます。
静謐な空間に、意識が鮮明な状態で「在る」、そんな感じです。

深い瞑想や治療中に入る”アレ”と同じです。
例えば、聖域といわれる場所や神社に佇んでいる時の空気のような……。

日本的な「肚(はら)に気が充ちる」とはこういうことでしたか。
う~む。
かなり誤解していました。

「肚や丹田を練る」というのは、もっとこう、なんというか、中国的気功と似ているものだと思っていました。
練る、鍛え上げる、造り上げるもの、というか。

でも、違いました。
上半身に無駄な緊張がなくて重心が定まれば。
そこには丹田がある。
そんな感じ。

誤解していてすみませんでした。> ご先祖様たち m( _ _ )m


昨日、目から鱗的に体で覚えたことは、上のこと以外にもたくさんあったのですが。
忘れないようにキーワードだけでもメモしておきます。

・はる(張る)
・みちる

上のキーワードや肚のことは、また書くつもりです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010/04/10

江戸時代の正座

最近時々正座をしています。

半跏趺坐よりグッと腰が入り、下腹部に息を充たす時に横隔膜が引き下げられるのがよくわかり。
また、胸が適度に伸びて顎が引けて、なかなか良い感じです。

型とは面白いもので、正座をして丹田に重心が落ちると気分は腹の据わった武士。
意識がシーンと引き締まり、気分はくつろいでいきます。

そんなこんな今日この頃なのですが、正座について調べてみたくなりました。

日本で正座が一般的になったのは江戸時代かららしいのですが、正座の座り方自体は古代遺跡や奈良時代の仏像にも現代の正座と同じ座り方があったとのこと。
それは以下の論文で詳しく検証されています。

正座の源流 Origin of Seiza:Sitting-Up Straight in Japan 川本利恵、中村 充一

ところで、正座という言葉ですが、Wikipediaには以下のように記されていました。

江戸時代以前には「正座」という言葉はなく、「かしこまる」や「つくばう」などと呼ばれていた。
1889年(明治22年)に出版された辞書『言海』にも「正座」という言葉が出ていないことから、「正座」という観念は明治以降に生まれたと考えられている。

「正座」という言葉は、確かに明治政府が編纂した全1000巻にも上る国学百科全書的「古事類苑」にも出てきません。
また、江戸時代に編纂された中国の「三才図絵」を範とした絵入り百科辞典「和漢三才図絵」にも、江戸時代の俗語・俗諺を集めた「俚言集覧」にも「正座」という言葉は出て来ません。

正座という言葉はまだないにせよ、一般的に正座という座り方を指す言葉として上記Wikipediaには

>「かしこまる」や「つくばう」などと呼ばれていた

とありますが、「つくばう」に関して「古事類苑」「和漢三才図絵」「俚言集覧」を調べた限りでは、正座を指す言葉には思えませんでした。
特に「和漢三才図絵」は編纂者が医師であることから当時の医学はもちろん人体や動作には詳しいのですが、「つくばう」に関して以下のように述べています。

・「和漢三才図絵 巻第十二 肢體部・足の用」
箕踞[和名は美井 みゐ] 蹲踞[宇豆久末留 うづくまる] [俗に豆久波不 つくはふ という]
  傲座(ごうざ)[足を投げ出したみだれた座り方]の形が箕(み)に似ているからである。
  また平座して両足を伸ばすのを箕踞(みい)という。蝦夷人は常に座るときこうする。
  また、ものに拠りかかって座るのを踞という。
  獣が前足を直(たて)て座るのを蹲踞(うづくまる)という。
  人が膝脛を直(たて)て尻を軽く地につけるのを蹲踞(つくばう)という。

上記を見ると、「つくばう」は現代の体育座りに似た形になるようです。
また、「俚言集覧」を見ても「つくばう」=「うずくまる」とあり、やはり体育座り様の座り方に思えます。

・「俚言集覧」
つくばる
  蹲踞をウヅクマルと云に同し ウは發語也 ハとマと通ず

ところで、江戸時代に「正座」という言葉はまだ一般的には流通していなかったようですが、言葉としての「正座」は既にあったようなのです。
それは、「古事類苑」や「俚言集覧」に掲載されている、室町から江戸時代の武家社会のしきたりを集大成した「貞丈雑記」の抜粋の中に出て来ます。
当時、正座のことを一般的には「かしこまる」言っていたようなのですが……。
その「かしこまる」が、ちょっとややこしいことになっていたようです。

・「貞丈雑記 十五 言語」
  かしこまると云はおそるゝ事也、貴人主人の威勢をおそるゝ心也、
    (中略)
  今世ひざを折りて正しく座するを、かしこまるといふは、かしこまり座すると云心也、
  貴人をうやまひおそれて座する也、
  正座の事をかしこまるとおもふは非なり、

この文章を見て、最初はキョトンとしました。
とにかくやたらと「かしこまる」という単語が出てきて、結局何を言おうとしているのかわかりませんでした。

「最近は正座することを”かしこまる”というが、それは”かしこまって座る”という意味だ。正座のことを”かしこまる”と思ったらそれは間違いだ」

上のように読んだら、訳が分かりません。
でも、しばらくボ~っと眺めていたら、少しわかったような気がしはじめ……。

  「かしこまる」と云は畏(おそ)るる事也、貴人主人の威勢を畏るる心也、
    (中略)
  今世ひざを折りて正しく座するを、「カシコマル」といふは、畏(かしこ)まり座すると云心也、
  貴人を敬い畏れて座する也、
  正座の事を畏(かしこ)まるとおもふは非なり、

上のように、当時の正座の一般的俗称を「カシコマル」、本来的意味を「畏まる」と分けて書くとわかるような気がします。

正座は江戸時代に急速に一般庶民にまで伝わったといわれていますが、それを庶民たちは「かしこまる」と呼んでいたのでしょうか。
武家社会のしきたりを集大成するほどの「貞丈雑記」の貞丈さんは、その庶民たちの単に座り方だけを指す「かしこまる」の言葉の使い方に我慢が出来なかったのかも知れません。

  「かしこまる」とは畏れ敬う心を指すのであって、座り方のことではないのだ。
  ただ膝を折って正座しただけで、それを「かしこまる」と言うとはなんと浅薄なことか。
  本当の正座とは、かしこまる心を持ちながら座するということなのだ。

そう言いたかったのでしょうか。

ちなみに、医師寺島良安の手による「和漢三才図絵」では、正座の座り方をあっさりと「かしこまる」で納得しているようです。

・「和漢三才図絵 巻第十二 肢體部・足の用」
跪(ひざまずく)[音は癸 キ] 跽(かしこまる)[音は其 キ]
  跪[比左末豆久 ひさまつく]は拝して跪くのである。
  跽[加之古末留 かしこまる]は長く跪くこと。両膝を地につけて身を立てるのである。
 △思うに、夷人は膝を屈めて礼することを胡跽(ひざまずく)という。(※胡は足偏)
  跽(かしこまる)に似ているが長座することはできない。
  跽は日本人が常に座って客と対するとき、みなこうする。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2010/04/02

ココログがツイッター投稿に対応

ココログがツイッターへのクロスポスト機能を追加したのこと。
さっそく設定してみました。

とはいえ、ココログの設定ページって対象ページに辿り着くのが大変なんですよね。
いつもウロウロ迷子状態になります。(ぼくだけかもですが ^^;)

ツイッターへのクロスポスト機能について:お知らせココログ」の説明を読んで「プロフィール設定ページ」がすぐに発見出来るとよいのですが、そもそもそのページ名は「プロフィールの編集」ページだったりして、ちょっと迷います。

> 「ツイッター」アカウントは、ココログ管理画面のプロフィール設定ページで設定することができます。

結局「コントロールパネル」タブ→「プロフィールの編集」→「アカウントの追加」まで進み、目出度く設定終了。

さて、この投稿はどんな感じでツイッターに投稿されるのでしょう。


※追記

解説ページには

>「ツイッター」のタイムライン上には、「記事のタイトル+記事のURL」という形式で表示され、URLは短縮されて表示されます。

「URLは短縮されて表示」とありますが、短縮されずにそのままのURLが表示されてます。(^^;

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年3月 | トップページ | 2010年5月 »