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2008/04/16

養生書「寝ぬ夜の夢」を読む 3

道に遊んで長生せんとおもひ給はば、却ってまづ生死を捨給へかし。
生死をすつれば生死皆命(めい)にまかせて私(わたくし)を用ゐず。
これ天命に安んずといふ。
天命に安んずるは、すでに道に遊べるなり、其胸中ここに豁然たらば、など元氣の屈伏せる事のあるべき。
元氣融通無碍にして天地の生育の化を蒙らば、などうくるほどの天命を盡さざらん。


道に遊んで長生きしようと思うのならば、逆に長生きしよう死から逃れようとする思いを捨てなさい。
生死を捨て、生死をすべて天命に任せ、私(わたくし)を用いずに生きるということ。
これを天命にくつろぐというのだ。
天命にくつろげば、それは既に道に遊ぶことであり、その胸中は迷いがなく爽やかで、元気が鬱屈するということもない。
元気が融通無碍にのびやかで天地のエネルギーを存分に浴びていれば、どうしてこの天命を尽くさないということがあるだろうか。


この段では、道に遊び長生きするにはどうすればいいかが述べられます。
柳井三碩さんは、まず、なにはともあれ「生死を捨給へかし」と言います。

「長生きしたい」というこだわりは、「死から逃れたい」という恐怖心から起こるのだと思います。
恐怖ゆえに安全を求め、養生訓などの養生や健康法にこだわり、「これさえ続けていれば大丈夫」という保証を手に入れる。
この安全への保証は根深いものがあって、現実をありのままに受け容れることからぼくたちを遠ざけています。
「~していれば大丈夫」や「~であるべきだ」、または「~が正しい」と固定し保証を得る。
このように固定、規定してしまえば、自分や自分の周りの世界で常に起きている変化や動きに関係なく一定した方法論がある訳ですから、わかりやすくて安全です。

でも柳井三碩さん、このことに関しては最初から「そういう風にこだわるからこそ元気は鬱屈して停滞してしまうんだよ。知らないだろうけれど、そういったほんのささいな思い違いが、取り返しもつかないほどの大きな違いになるというのに」と警告しています。
安全を求める為に固定した方法論を手に入れたのだろうけれど、そもそものその安全を求める心が思い違いなんだよ、と言っているようです。

生まれたらいつかは死にます。
それは、人生のありのままの現実です。
まずは、それを理解しようとすること。
丸ごと受け止められないかも知れませんが、理解しようとは思えるはずです。
「死から逃れよう」と考えるのではなくて、「いつか死ぬということを理解しよう」と考えてみる。
そんな些細な違いが大きな違いになるのだと思います。

そして、いつかは死ぬと理解しようとした時。
(えと、いつでもとっても大切なことは「100%理解出来た」とか「どれだけ理解出来たか」ではなくて、そうしようと心のベクトル(向き)を向けるということです)
いつかは死ぬと意識しはじめた時、「何が何でも死から逃れたい」というトンチンカンな私(わたくし)が激減します。
安全な保証にばかりこだわっていた意識が、自分や自分の周りの世界で常に起きている変化や動き、"現実"にも開かれるようになります。

現実の生(なま)の自分は、常に変化し続けています。
その想い、興味、好奇心は常に湧き出し、流れ、一定することはないです。
それを大切に育み、機会があれば表現し、生きること。
それが柳井三碩さんの言う「生死をすつれば生死皆命(めい)にまかせて私(わたくし)を用ゐず。これ天命に安んずといふ」なのだと思います。

さて、こだわりなく、自分の内側から湧き出す内発性(想い、興味、好奇心)を育み、それに従って生きるということは、それは既に「道に遊ぶ」ということであり、その胸中には迷いや澱みもなく爽やかで、元気が鬱屈するということもはありません。
「天命を全うする」という言葉がふさわしいですね。


だんだん面白くなってきましたが、次の段がちょっと難しいです。
手持ちの「療養聖典」にある「寝ぬ夜の夢 抄出」ですが、「抄出」とあるので、掲載してある段落それぞれが連続した段落なのか、飛び飛びにピックアップした段落なのか不明です。
この次アップするのは、少し先になりそう。(^^;

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