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2008/04/30

ツツジとお茶摘み、鯉の産卵

今年のツツジは、例年に比べて色鮮やかな気がします。

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そんな今日この頃、お茶摘み風景に遭遇。

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この辺は狭山茶の茶畑がけっこうあるのですが、お茶摘み風景を目にするのは珍しいです。
あんまり見たことがなかったので新鮮。


清瀬寄りにある空堀川を散歩していると、時々鯉がバシャバシャのたくっている風景を目にしていたのですが、今日は近所の川で同様の光景を目撃。

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「おぉ、のたくってる、のたくってる」と眺めていたら、老紳士がカメラ片手に近寄って来。
「鯉の産卵だよ、これは。めったに見れるモンじゃないよ。」と言いながらカメラのシャッターをパチリ、パチリ。
む~、最近よく目にする光景なのですが……。
めったには見れない産卵とかが、人目につくところで多く見られるようになると……、なんて話も聞きますが。(^^;
ま、たまたまぼくらの目撃頻度が多かったってことにしましょう。

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2008/04/28

人体3Dソフトとしてのセカンドライフ

表題の投稿をしようと、過去に使っていたソフトやそれで作った画像を調べていたら、今は公開していない良い感じのページを発掘したりし。
「これをどう書き直したらまた公開出来るだろか」などと妄想にふけったり、昔使ったソフトを再度いじくり回したりしているウチに無駄に時間が経過しています。(^^;

で、表題ですが、未だ人体3Dソフトとしては活用出来ていないのが実情で、「こういう風に使えるよね」という感じ程度。
でも、以前に作った体の動きを解説する画像やGIFアニメーションは、そのままセカンドライフを使用して動画として表現可能です。
その際、説明したい体の動きや姿勢等は、限定されたキャラクターではなくて老若男女問わず様々な人物で動かすことが可。
なのかつ3Dなので、どのような視点からも眺めることが出来ます。
マッサージ師やボディーワーカー、手技療法家にとっては物凄く魅力的ですよね。(^^)

ともあれ、現在セカンドライフのアニメーション作成用フリーソフトからメモしておきましょう。
フリーで定番としえば「QAvimator」。
以下からダウンロード出来ます。

・QAvimator
http://qavimator.org/

好き勝手にいじっているうちに操作方法は慣れてしまいます。
直感的に使える優れもの。
それでも、一応説明が欲しい人は以下のページがわかりやすいかもです。

・アニメーション・ポーズの作り方|セカンドライフJAPAN
http://secondlife.chu.jp/anim01.html

フィギュアは男性(male)と女性(female)のどちらかが選べます。

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ちょっとキモイ人たちですが (^^; 、ぼくは男性フィギュアで作ってます。
セカンドライフ上でアニメーションやポーズをさせなくても、この「QAvimator」で作ったポーズを「PrintScreen」でキャプチャーし、画像加工ソフトにコピー&加工するだけでも、マッサージ師やボディーワーカー、手技療法の解説素材として使えると思います。

現在書きかけの「マッサージ雑感」で、「病気の内に交わりて居る」を実感するための解説用画像を作成中なのですが、その自己指圧的なことをやっている「QAvimator」上でのポーズが下の画像。
男性で作っていましたが、今回は女性フィギュアで読み込んでみました。

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このデータをセカンドライフにアップロードし、puruさんアバターで実行してみた図が下。
今回の撮影用に和室を作って撮ったもの。
こういった環境から作れるところがセカンドライフの魅力なのです。(^^)

ちなみに、puruさんのセカンドライフ専門のブログが以下。
「達磨屋」という名前で和物中心のお店をやってます。

・DHARMAYA 達磨屋
http://dharmaya.slmame.com/


今はこんな感じで進めていますが、過去に解説用画像を作っていた時は、「モーションスタジオ」というシェアウェアを使っていました。

・モーションスタジオ(Windows95/98/Me / 画像&サウンド)
http://www.vector.co.jp/soft/win95/art/se105655.html

基本的に、このソフト上でフィギュアにポーズをつけるだけならば無料で試用し続けることが出来ます。
動きのあるアニメーションファイルとして出力するには、シェアウェア料金を支払わなければいけませんが。
当時、フィギュアにポーズをつけ、それを「PrintScreen」して画像加工していただけだったので、必ずしもシェアウェア登録の必要は無かったのですが、「モーションスタジオ」で作った解説画像をWebに公開する関係上シェアウェア料金は支払い済み。
なのですが、支払い後に送付されたパスワードはどうせアニメーションファイル出力はしないということで、どこかに紛失したまま。
今回久しぶりにソフトを立ち上げてみたら、出力ファイルが「QAvimator」同様 bvhファイルであることが判明。
ひょっとしたらセカンドライフで使えるかも知れません。
作者さんに連絡してパスワードを再発行してもらうことにします。

で、そのソフトがこれ。↓

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フィギュアは男性2タイプと、服を着た女性が2タイプ。
ぼくはもっぱら上の人を使用してました。

過去に作った、操体法の「つま先反らし」の解説画像とGIFアニメ。↓

   


時間があれば、こういった過去に作った解説画像などもセカンドライフ上でアニメーションとして再現すれば、かなりクオリティが上がるのにね。
そして、そこに医療用人体3Dソフトの「Med:Lips」の画像も並べたりしたら、かなり質の高い解説素材が作れると思うのです。

・【解剖学 解剖生理学 解剖アトラス】解剖学3Dソフト「Med:Lips V2]」
http://www.humanbody.jp/software/item/at0131.html?gclid=CPfroPa5-JICFQEGxwod4B9PGg

実際、今作りかけのものは、解剖図があるとかなり実感的イメージを伝えられると思うのです。
過去にテキスト用素材として作ったのが下の画像。
骨と内臓は同時に描画出来ないので、それぞれを同じ角度からの視点にして「PrintScreen」。
その後画像加工ソフト上で適度に透過させたりして作成。
横向きに寝た患者さんの背腰部を按摩する際の身体内イメージを、参考図解にしてみたものです。

この人体解剖ソフトは、人体を3Dで好みの角度にグリグリ動かして見ることは可能ですが、関節を動かせる訳ではないのでいろいろと画像加工して工夫するしかないですね。


ここに投稿した人体3Dの記事をまとめたページ→「鍼灸マッサージ師・手技療法家のための人体3Dソフト

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2008/04/25

人体3Dソフト読み込み悪し

「マッサージ雑感」の続きに、感覚を受け容れる実験の図解を入れようと思い。
久しぶりに人体3Dソフトをインストールしようとしたら。
CDの読み込みが超悪い。
数回トレイを出したり入れたりしてなんとかインストール。
したものの、今度はソフト起動時にCDを読み込まない。

思い出しました。
このCD、前もこんなでした。
買ったCDが悪いのかと思い、もしもの時の為にもダビングしておいたのですが。
実は、その時にもデータの吸い出し時に確か5~6時間かかったんじゃなかったっけ。
で、ダビングしたヤツまでもが同じ症状だし。

いつもこんなんでは使い物にならないので、また5~6時間かけてでもIMGファイルにし、仮想CDドライブで読み込むことにしましょう。
……。
って、それも以前同じことやってたじゃん。(^^ゞ
困ったソフトだ。(-_- ;

ところで、この人体3Dソフト、購入したのが2005年10月頃。
ここに書いていましたね。↓

町の按摩さん blog: 医療用人体3Dソフト
http://anma.air-nifty.com/anma/2005/10/post_e742.html

久しぶりに販売会社のページを訪問。

・【解剖学 解剖生理学 解剖アトラス】解剖学3Dソフト「Med:Lips V2]」
http://www.humanbody.jp/software/item/at0131.html?gclid=CIj2n-bm9ZICFQ_VXgodEDWICA

ページタイトルに「V2」とあったので、バージョンアップしたのかと思いましたが、変わっていない模様。
ただ、購入者が利用出来るウェブサービスが出来ていました。
利用には購入時のIDとパスワードが必要とのこと。

>ユーザーIDとパスワードは製品パッケージに同梱の
>「メドリップスウエブサービス利用案内」に記載されています。

ていうか、ぼくが購入した時は「メドリップスウエブサービス利用案内」のウェブサービス自体がなかったじゃん。
もちろん、パッケージにはIDもパスもなかったし。orz
でも、ま、利用したいサービスはないので、いいっす。
一番欲しい体幹(背腰部や身体前面)の筋肉3D画像は相変わらず追加されていないし……。

イメージファイルとしてCDデータの吸い出しをしはじめて約1時間経過。
まだ6%という数字が……。(-_-+;

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2008/04/24

マッサージ雑感 其の弐

前回、ぼくが行っている按摩を「慰安の技としての情緒的按摩なのです」と書きました。
それを具体的に説明してみたいのですが、その前に病(やまい)とは何か、痛みや苦しみ、病気とは何かを、古典を通して説明したいと思います。

江戸時代の按摩の古典「導引口訣鈔・導引根源の訓」には以下のように記されています。

ある人が問う。
「諸々の病気は何が根本原因なのか。」
答えて曰く。
「つかえ滞ることによって起こる。」

病気の根本原因はつかえや滞りだと言い切っています。
これを現代的に身体だけに限定してとらえないで下さいね。
心身ともに気がつかえ滞ることで病を得る、と考えればよいと思います。

柳生但馬守宗矩による「兵法家伝書」は剣術の伝書ではありますが、病は思い詰めること、心の滞りだと言います。

勝たんと一筋に思ふも病なり。
兵法使はむと一筋に思ふも病なり。
習ひのたけを出さんと一筋に思ふも病、掛からんと一筋に思ふも病なり。
待たんとばかり思ふも病なり。
病を去らんと一筋に、思ひ固まりたるも病なり。
何事も心の一筋に、留どまりたるを病とするなり。
この様々の病、みな心にあるなれば、これらの病を去って心を調うる事なり。

では、その病から去るにはどうしたらよいのでしょう。
「兵法家伝書」は具体的に言います。

一向に病を去らんと思ふ心の無きが、病を去るなり。
去らんと思うが病気なり。
病気に任せて、病気の内に交わりて居るが病気が去つたるなり。

病を去ろうと思う心が一切無いこと、それが病を去るということだ。
去ろうという思いもまた病気なのだと知りなさい。
病気に任せ切り、病気の内に溶け込み一体となることが病気を去るということになる。

最初の「一向に病を去らんと思ふ心の無きが、病を去るなり」が重要なポイントになります。
病気とは心身の気のつかえや滞りですが、それは心身の痛みや苦しみ、不快感として感じます。
普通、不快な感覚や想いはじっくりとは感じたくないものですから、出来る限り感じないようにし、「何とか治そう、なくそう」と考えます。
ですが、いくら心や頭で考えたり望んだりしたところで、リアルな不快感が自分の中にあるのは事実です。
そして、心や頭で考えたり望んだりするエネルギーが強ければ強いほど、リアルな不快感との間の葛藤はより強くなります。
この葛藤、実はこれ自体もつかえ滞りで、「去らんと思うが病気なり」ということになります。

ところで、不快感を「何とか治そう、なくそう」と考え葛藤している時、不快感は表面的にしか感じていません。
そもそも感じたくないのですから、その感覚を深く味わうどころの話ではないですよね。

さて、先ほどのところにもう一度戻りましょう。

一向に病を去らんと思ふ心の無きが、病を去るなり。

まず、「何とか治そう、なくそう」という焦りや葛藤自体も滞りなのだから、その焦りや葛藤を捨てることが心身の不快感(痛み、苦しみ)から去る第一歩なのだよ、ということです。

病気に任せて、病気の内に交わりて居るが病気が去つたるなり。

「何とか治そう、なくそう」という焦りや葛藤を捨て、心身の不快感を「事実あるのだ」と受け容れ、その感覚を内側から感じて一体となれば心身の不快感は去るのだよ。
「何とか治そう、なくそう」という焦りや葛藤を捨てた時、ようやく不快な想いや感覚をその内側から味わい感じる準備が出来ます。
例えば、自分の中に不快なボールがあるとしましょう。
その不快さを「何とか治そう、なくそう」と葛藤している時、外側からボール表面の感じを嫌々感じていることになります。
ボールの内側の感じはわかりません。

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ところが、不快感をなくそうという心を捨て不快感に任せ、今在る不快感の中に深く溶け込み味わおうとした時、自分の意識は不快感の内側にあって不快感と一体です。

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こうして一体と溶け合った時、不快感は去っているということになります。
ちょっとわかりにくいかも知れませんね。(^^; 文章ヘタクソ)

以下次号、ということで。(^^ゞ

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2008/04/23

亀さんが泳ぐ、ポヨンとした気候

初夏のようなポヨポヨンとした、暑いくらいの気温の中。
亀さん泳いでました。

下がその写真。

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右上が野性の老人、じゃなくって釣り老人。
写真中央にいるのが亀、、、はまったく見えませんね。(^^; うはは

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中央部分を拡大、というか元画像の大きさが↑これ。
上の写真が縮小したヤツなのでした。
なんとなく亀、見えますよね。

いつもは釣り人がいる対岸のブロック上で、じーーーーーーっと動かず甲羅干ししてる亀さんたちですが。
こののんびりした気候の中、無性に泳ぎたくなったのでしょう。

下は川の中を歩く野性の親子、、じゃなくって、普通の親子。
暑いくらいだったので、気持ち良さそうでした。(^^)

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部分的新緑も、新緑部分が増えてきました。

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マッサージ雑感 其の壱

按摩のことをマッサージと呼ぶようになって久しいですが、日本のマッサージ店やマッサージ治療院、サウナ、温泉等で行われているマッサージのほとんどすべてが、実は手技としては"按摩"です。
では手技としての"マッサージ"は何かといえば、皮膚に直接に働きかけるのが西洋由来の"マッサージ"。
エステやアロマなどで行われるオイルマッサージがその代表格だといえばわかりやすいでしょう。
他にタルクと呼ばれるパウダー(ベビーパウダーがわかりやすいと思いますが)を用いたパウダーマッサージなどがそれです。
片や日本の按摩は、衣服の上から日本手拭いをかけ、その上から主に母指を用いて働きかけます。
まあ、按摩もジャパニーズ・マッサージという広義の意味でのマッサージですから間違いではないのですが、この日本の風土で独自に育まれた伝統の技を広義のマッサージという名称で埋没させてしまったのは如何にも残念なことです。
言葉が埋没してしまえば、そこに含まれている精神や雰囲気、情緒まで損なわれてしまいますから。

今「伝統の技を広義のマッサージという名称で埋没させてしまった」と過去形で書きましたが、それはおそらく過去形で語るべきことなのだと思います。
西洋医学や科学を信奉し、合理性や論理性に重きをおくようになった時、それははじまったのでしょう。
医学や科学、合理性、論理性への盲進が頂点にある今、過去に持っていた按摩の空気は既に失われてしまったのだと思います。


かつて按摩は慰安の技でした。
一応「抑按調摩の術」などと治療理論があるかのようにもいわれていましたが、その実際は、撫でさすり揉む、素朴で原初的なものです。
ただ、世界に類を見ないほど繊細な感性を持つ日本人が行う按摩は、相手の人や相手の体に対していたわりと畏敬の念さえ抱く、優れて情緒的な慰安の技でした。

医学、科学、治療効果、結果が重視されはじめると、いたわりや畏敬、情緒などは必要なくなります。
本当は、それらによって治癒が促されるのですが……。

という訳で、実のところぼくが行っているのは。
国家が認めるあん摩マッサージ指圧師免許や医業類似行為や治療効果などとはまったく無関係な、慰安の技としての情緒的按摩なのです。
(二次的に治療効果があったり治癒が生じたりはしますが、それは二次的なこと)


タイトルを"其の壱"としましたが、つづきはあるのでしょうか。笑)

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2008/04/17

オリーブオイルって美味しいね

店頭でバターを見ない日が多い今日この頃。
朝のトーストには、オリーブオイルを塗り(塗るというよりもかけるか?)軽くお塩をパラパラ振りかけて食しています。

ていうか、ぼく。
オリーブオイルの使い方というか、オリーブオイルを使う必然性など微塵も感じていなかった人な訳であり。
オイルといえばサラダオイルとゴマ油があれば、充分以上に間に合うと思っていたです。
まあ、最近ではサラダのドレッシング作りにはオリーブオイルが良いかな、程度。

が。
最近、バターが品薄らしくて、スーパー等の店頭から姿を消してちょと経過。
プラバさんが前から「オリーブオイルを塗ると美味しいよ」と言っていたので試しにやってみたらばです。
すっごい美味しいじゃん。
知らなかった。
軽くお塩を振ったその塩味と、絶妙なコンビネーションですね。

……もっと早く知っていれば良かった。

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ちなみに写真は、100円ショップで買ったオイル瓶。
かなり使いやすいです。(^^)

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2008/04/16

燃えるツツジ

どうやらこれから天候が崩れそうですね。

昨日の日中は、まだポカポカ天気でした。
そんな中夕方のお散歩。

ツツジだかサツキだかが、夕陽を浴びて燃えるようでした。

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今年の春は、何故かカモが少ないです。
それでも少しずつ見かけるようになり、ちょとうれしいです。

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大好きな大木も部分的新緑。

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養生書「寝ぬ夜の夢」を読む 3

道に遊んで長生せんとおもひ給はば、却ってまづ生死を捨給へかし。
生死をすつれば生死皆命(めい)にまかせて私(わたくし)を用ゐず。
これ天命に安んずといふ。
天命に安んずるは、すでに道に遊べるなり、其胸中ここに豁然たらば、など元氣の屈伏せる事のあるべき。
元氣融通無碍にして天地の生育の化を蒙らば、などうくるほどの天命を盡さざらん。


道に遊んで長生きしようと思うのならば、逆に長生きしよう死から逃れようとする思いを捨てなさい。
生死を捨て、生死をすべて天命に任せ、私(わたくし)を用いずに生きるということ。
これを天命にくつろぐというのだ。
天命にくつろげば、それは既に道に遊ぶことであり、その胸中は迷いがなく爽やかで、元気が鬱屈するということもない。
元気が融通無碍にのびやかで天地のエネルギーを存分に浴びていれば、どうしてこの天命を尽くさないということがあるだろうか。


この段では、道に遊び長生きするにはどうすればいいかが述べられます。
柳井三碩さんは、まず、なにはともあれ「生死を捨給へかし」と言います。

「長生きしたい」というこだわりは、「死から逃れたい」という恐怖心から起こるのだと思います。
恐怖ゆえに安全を求め、養生訓などの養生や健康法にこだわり、「これさえ続けていれば大丈夫」という保証を手に入れる。
この安全への保証は根深いものがあって、現実をありのままに受け容れることからぼくたちを遠ざけています。
「~していれば大丈夫」や「~であるべきだ」、または「~が正しい」と固定し保証を得る。
このように固定、規定してしまえば、自分や自分の周りの世界で常に起きている変化や動きに関係なく一定した方法論がある訳ですから、わかりやすくて安全です。

でも柳井三碩さん、このことに関しては最初から「そういう風にこだわるからこそ元気は鬱屈して停滞してしまうんだよ。知らないだろうけれど、そういったほんのささいな思い違いが、取り返しもつかないほどの大きな違いになるというのに」と警告しています。
安全を求める為に固定した方法論を手に入れたのだろうけれど、そもそものその安全を求める心が思い違いなんだよ、と言っているようです。

生まれたらいつかは死にます。
それは、人生のありのままの現実です。
まずは、それを理解しようとすること。
丸ごと受け止められないかも知れませんが、理解しようとは思えるはずです。
「死から逃れよう」と考えるのではなくて、「いつか死ぬということを理解しよう」と考えてみる。
そんな些細な違いが大きな違いになるのだと思います。

そして、いつかは死ぬと理解しようとした時。
(えと、いつでもとっても大切なことは「100%理解出来た」とか「どれだけ理解出来たか」ではなくて、そうしようと心のベクトル(向き)を向けるということです)
いつかは死ぬと意識しはじめた時、「何が何でも死から逃れたい」というトンチンカンな私(わたくし)が激減します。
安全な保証にばかりこだわっていた意識が、自分や自分の周りの世界で常に起きている変化や動き、"現実"にも開かれるようになります。

現実の生(なま)の自分は、常に変化し続けています。
その想い、興味、好奇心は常に湧き出し、流れ、一定することはないです。
それを大切に育み、機会があれば表現し、生きること。
それが柳井三碩さんの言う「生死をすつれば生死皆命(めい)にまかせて私(わたくし)を用ゐず。これ天命に安んずといふ」なのだと思います。

さて、こだわりなく、自分の内側から湧き出す内発性(想い、興味、好奇心)を育み、それに従って生きるということは、それは既に「道に遊ぶ」ということであり、その胸中には迷いや澱みもなく爽やかで、元気が鬱屈するということもはありません。
「天命を全うする」という言葉がふさわしいですね。


だんだん面白くなってきましたが、次の段がちょっと難しいです。
手持ちの「療養聖典」にある「寝ぬ夜の夢 抄出」ですが、「抄出」とあるので、掲載してある段落それぞれが連続した段落なのか、飛び飛びにピックアップした段落なのか不明です。
この次アップするのは、少し先になりそう。(^^;

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2008/04/15

野性のチューリップ

チューリップとか球根系の花は、咲いた後に土から上げて再度植え替えたりし、手をかけないと年々球根や花が小さくなるものだと思い込んでいましたが。
花壇に10年くらい前に植えたまま放置していたチューリップ。
今年は大きめの花がみっつも咲いたです。

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考えてみると野性の球根は、年々数を増やして増殖したりする訳で。
そうやって種を存続させているんですよね。

ウチの花壇のチューリップは、ほぼ野生化してるということでしょうか。
花壇、土の入れ替えとか肥料とかやったことないし。(^^;

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2008/04/14

菜の花の薫り

午後、暖かかったですね。
というかまるで初夏のようで暑いくらいでした。

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のんびり川沿いの遊歩道をお散歩。
朝とは違って、菜の花の薫りが濃厚でした。
いつもとは陽の高さが違うので、風景の見え方も違います。

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新緑、それも黄緑のヤツが物凄く鮮やかだったのですが、写真ではよくわかりませんね。^^;
ここは日当たりがそれほど良くないので、桜もまだ少し残ってます。

ムクドリが並んで水浴びしているのを眺めたり、のんびりとした午後、夕方のお散歩でした。(^^)

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ハリウッド版リメイク映画「猟奇的な彼女」

映画「猟奇的な彼女」が日本で公開されたのが2003年1月。
公開時は単館系での上映だったこともあり、大ヒットには至らないながらも口コミで徐々に評判が広がった映画だったですね。

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はじめて観た時は衝撃的でした。
ストーリーもさることながら、主演ふたりのキャラクターが物凄く魅力的。
韓国映画ならではの美しい映像、その背景に流れる音楽がまた繊細で綺麗。
一気にふたりの、そして韓国映画のファンになりました。

DVDが発売されると、すぐに購入。
何回繰り返して観たかわからないほど。
もちろんオリジナルCDも買いましたよ。

    

そんな「猟奇的な彼女」が、4月20日(日)よる9時から初回75分スペシャルでドラマ化リメイクされるとか。
一昨日「王様のブランチ」でドラマ「猟奇的な彼女」のプレミア試写会の模様を中継していましたね。

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田中麗奈さんの彼女振りは、思った以上に良いです。
いや、非常に良いです。
思い切った乱暴な演技も素敵だし、可愛いらしさもピュアーで良いです。
番宣だけでファンになっちてしまいました。

と、そんなこんなな今日この頃ですが。
YouTubeにハリウッド・リメイク版映画「猟奇的な彼女」がアップされていました。

以下は4/2の記事。

>クァク・ジェヨン監督の「猟奇的な彼女」がハリウッドでリメークされ、韓国内に逆輸入された。

とのこと。

・asahi.com:「猟奇的な彼女」のアメリカリメーク版逆輸入 -
http://www.asahi.com/culture/korea/TKY200804010306.html

韓国映像物等級委員会はヤン・サミュエル監督の「マイセッシーガール」(My Sassy Girl)を審議、15歳以上観覧可の等級に決定。
封切り日程は未定。
アメリカ本国でもまだ上映していない状態とのこと。

キャストはヒロイン:エリシャ・コスバート、男の主人公:ジェス・プレパード。
誰ッスか、それ。(^^;;

YouTubeにアップされた動画を見てみてみましたが、なんだコリャ、て感じ。

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そもそも猟奇的な彼女が猟奇的たり得るのは、儒教的条件付けに縛られた文化ならではなのであって、欧米で猟奇的な女がいればそれは単なるDVかもですね。(^^;; うはは
だもんで、予告編を見ても"彼女"の猟奇的テイストは薄められ(ていうか、無い、に等しく見えたです (^^;)、ごく普通の女性のように見えます。
なんかフツーのB級ラブストーリーみたい。

まあ、予告編ですから確かなことはわかりませんが。

その内削除されているかも知れませんが、YouTubeのリンクは↓これ。

・YouTube - My Sassy Girl-Trailer
http://www.youtube.com/watch?v=VXsMTxrsQR4

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2008/04/11

養生書「寝ぬ夜の夢」を読む 2



彼の「養生訓」に書ける内慾をこらへよ、外邪を防げ、飲食はうすくせよ、色慾はこらへよ等の事みなこれ術(すべ)なり。

行ふを惡しきといふにはあらず、道に遊ぶことを知らざれば必ず拘(かかは)るに至る。

拘(かかは)るが故に元氣鬱滞す。

鬱滞すれば、血氣の流行よぞむ。

表と裏との氣通ぜず、上と下との氣交らず、表裏通ぜざれば天地生育の化を我にうくる事得ず。

上下まじはらざれば我腔内の精氣、五臓百骸をやしなふこと能わず、外閉じれば病外より生じ、内塞がれば病内に生ず。

此故に養生に拘(かかは)る人身(じんしん)却って衰弱なり。

試に田野の人を見よ。

偶然として百歳にわたる者多く、あながち美食せざるのみにあらず、その心、無我にして知らず識らず道に遊ぶことを得ればなり。


「養生訓」に書いている"内欲をこらえなさい、外邪を防ぎなさい、飲食を少なくしなさい、色欲をこらえなさい"等の事柄はすべてガイドに過ぎない。
これらに従うことが悪いとはいわないけれど、道に遊び人生をのびのびと愉しむことを知らなければ、必ずこだわることになってしまう。
こだわるからこそ元気は鬱屈して停滞してしまうのだ。
生命活動の源である元気が鬱滞すれば当然気血の流れは澱むだろう。
表と裏の気が交流せず、上と下の気が交わらず、表裏交流しなければ天地の有機的生成変化を我が身に受けることは出来なくなる。
上下が交流しなければ、体内の精気、五臓やあらゆる骨を栄養することが出来ず、外が閉じれば病は体表から生じ、内が塞がれば病は体内から生じる。
このようにして養生にこだわる人の身体はかえって衰弱しているのだ。
試しに世間の人を見てみるとよい。
偶然百歳になった人が多く、あながち美食をしないというだけではなく、その心中は無我であり意識せずに道に遊びのびのびと愉しんでいる。


前回に続いて、この段落でも術や方法論にこだわることが気の鬱滞や病を招き、道に遊ぶことの大切さを語っています。
秘訣は、術にこだわらず道に遊ぶことのようですが、これを説明するのは難しいですよね。

前回も今回も「道に遊ぶ」を気が鬱滞するような「術にこだわる」に対比させて「人生をのびのび愉しむ」という風に表現してみましたが、これだけでは伝わりません、おそらく。(^^;

「術にこだわる」を"考える"ということにしてもよいかも知れません。
人生をあらかじめ考えたように送る、という表現にすれば文脈的にも合っていそう。
例えば「~すべきだ」「~するのが正しい」という教条的な捉え方。
人は生(なま)ものですから、このようなハウツー的教条的な枠に縛り付けて人生を送っていれば、必ず破綻をきたすことは目に見えています。

片や「道に遊ぶ」は内発的感性や感覚主導で生きるということになります。
指針はすべて自らの内側から湧いてくるのですから、予測不可能でありながらも生き生きとしています。
自分の感性、感覚でありながら、あたかも第三者であるかのようにそれらを観察する観察者の目を持つ必要があります。
こう書くとなんだか難しく思えますが、まぁ、単純に自らに対して"より意識的になる"ということです。
100%意識的になる必要なんかはなくて、"より意識的に"、"出来るだけ意識的に"というベクトルこそが大切なんだと思います。

「寝ぬ夜の夢」でも、この先もう少し角度を変えながらこの辺のことを語ってくれると思うので(しっかりとはまだ読み込んでいない(^^ゞ)、ゆっくりと進んでいきましょう。(^^)

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2008/04/09

養生書「寝ぬ夜の夢」を読む 1

昔買った古書の中に、昭和十三年発行「療養聖典」伊藤康善/編 自然良能社/刊 という本があります。
療養に役立つ数々の古典の抄出からなる編纂本ですが、時々読み返しているお気に入りの一冊。
いつも拾い読みするのですが、今回は今まで気づかなかった編で、なおかつ共感するものがあったので、転載しつつ読んでみることにします。



柳井三碩著「寝ぬ夜の夢」抄出

(※編者注)
柳井三碩は徳永末期の醫師なれども傳記は詳かならず。
本文は東海道旅行記に寄せて養生を論じたるものなれど、殊に益軒の「養生訓」の意味を強化せる點が面白しと思ひ茲に抄出せり。

正徳の年ごろ貝原篤信翁といへる人、「養生訓」を著はして今世に流布す。
されど其をしへて守る人は甚だ稀なり。
また能くその言ふ所を守り明け暮れ養ひ拘(かか)れる人、却って多くは多病をまぬがれず。
これ如何。

翁曰く、養生訓の術(すべ)に拘(かか)はれる人は枉(まげ)て是をなす者は氣屈してのびず、多病なるもうべなり。
これ道に遊ぶことを知らずして徒に術(じゅつ)に依って長生せんと思ふなり。
毫厘の差(たが)ひ謬(あやま)りて千里を以てするものか。

(評註)
古人が益軒の養生訓を座右の銘とせるはまだ良し。
養生訓は衛生醫學を論じ忍耐節制の道徳を教へたる好著なれば也。
現代人に至っては新聞雑誌の療病知識を借りて病に對して狼狽すること笑止に過ぎたり。
素人には役にも立たぬ醫書抜きて、あれこれと自己診断に惑ひ、足を空に浮かせて藥局の店頭に走る。
野菜スープに過ぎざる漢藥か、モヒの毒藥を盛る洋藥か、好む所に随って右往左還し、醫者の門を叩く時は既に病は九分通り快癒せる時か、然らずんば命旦夕に迫る時なり。
早死する時は自己の天命を思はずして却って醫藥を恨むなり。
古人既に「養生訓」にすら捉はる。
今人醫藥に捉はるる愚を笑ふべからずと雖も、主客轉倒せる療養知識も亦憐むべし。


柳井三碧を検索してみると、この「寝ぬ夜の夢(ねぬよのゆめ)」の情報しかありませんでした。
1802(享和二)年に出ています。

貝原益軒著「養生訓」もそうですが、ぼくの好きな「和漢三才図絵」も「寝ぬ夜の夢」の90年前の1712年。
「導引口訣鈔」もほぼ90年前の1713年。
図解入り按摩ハウツー本「按摩手引」が同じ頃の1801年です。
この数年後に、日本独自の骨接ぎ(整骨)本が出版されはじめます。
そんな時代ですね。




正徳年間に貝原篤信翁という人が「養生訓」を書き、今世間で広く読まれている。
しかしその教えを守り行っている人はほとんどいない。
というか、その教えを朝な夕なにかけてこだわって養生している人は、逆にその多くが多病を患っている。
これは何故だろう。

翁は言う。
養生訓に書いてある方法にこだわる人、無理をして行っている人は気が鬱屈してのびのびせず、多病になるのも当たり前だ。
人生をのびのび生き生きと愉しむことも知らず、あざとくも養生ハウツーに頼って長生きしようと望んでいるのだから。
ほんのささいな思い違いが、取り返しもつかないほどの大きな違いになるというのに。


こんな感じでしょうか。

『氣屈してのびず、多病なるもうべなり。』
感覚的に、病(やまい)=こだわり=気が鬱屈、と思っているのですが、サクッと語ってくれていますね。

『道に遊ぶことを知らずして徒に術に依って長生せんと思ふなり』
「道に遊ぶ」はごくシンプルに、人生をのびやかに愉しむ、でよいと思います。
「術によって」は、理論や方法論、ハウツーみたいな、生(なま)の感覚や感性とは対極にあるもの。
「道に遊ぶ」は生の感覚や感性から為されるものですからね。

シンプルで深い文章です。(^^)

ちなみに、編者の評註も、現代でもそのまま当てはまる痛快な文章です。

(つづく)

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