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2006/04/17

武術書に見る「病を去ること」2

「兵法家伝書」柳生但馬守宗矩 寛永九年(1632)より

後重には、一向に病を去らんと思ふ心の無きが、病を去るなり。
去らんと思うが病気なり。
病気に任せて、病気の内に交わりて居るが病気が去つたるなり。
病気を去らんと思ふは、病の去らずして心にある故なり。
しからば、一円病気が去らずしてする程の事、思ふ程の事が着して、する事に勝利あるべからず。
如何んか心得可きぞや。

答へて曰く。
初重後重と二つたてたるはこの用なり。
初重の心持ちを修行して、修行積みぬれば、着を去らんと思はずして、ひとり着が離るるなり。
病気というは着なり。
仏法に深く着を嫌ふなり。
着を離れたる僧は、俗塵に交じりても染まず、何事をなすとも自由にして、留どまる所が無ひ者なり。
諸道の達者、その技々の上に付きて着が離れずば、名人といはるまじきなり。
磨かざる珠は塵ほこりがつくなり。
磨きぬきたる玉は、泥中に入りても汚れぬなり。
修行をもって心の玉を磨きて、汚れに染まぬやうにして、病に任せて、心を捨て切つて行き度き様にやるべきなり。

後の段階では、病を去ろうと思う心が一切無いことが病を去る秘訣となる。
去ろうという思いが病気なのだ。
病気に任せ切り、病気の内に溶け込むことが病気を去るということになる。
病気を去ろうと思うのは、いまだに病が心から去ってはいないからだ。
そこで、一向に病気が去らないままする事は、思いが心に留どまったままなので、事を達成出来るはずもない。
どのように心得るべきだろうか。

答えはこうだ。
第一段階、後の段階と、二つに分けたのはこのような理由だ。
第一段階の心持ちを修行し、修行を積んでいけば、心の留どまりを去ろうと思わなくても、ひとりでに留どまりから離れるようになる。
病気というのは心の留どまりだ。
仏法では執着を深く嫌う。
執着を離れた僧は、俗塵に交じっても染まらず、どんな事をしても自由に在り、留どまることが無い者だ。
諸道の達人で、その技の上に心が留どまって離れないならば、とても名人とはいえない。
磨かれていない玉には、塵やほこりが付く。
磨き抜いた玉は、泥の中に入れても汚れはしない。
修行によって心の玉を磨き、汚れに染まぬようにし、病に任せ切り、心を解き放って自由に生きるべきだ。

コメントは後日。

武術書に見る「病を去ること」1~4

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