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2006/04/20

味噌床のその後

今年一月から仕込んだ味噌床。
  味噌床の作り方等 → 01/12/2006 漬け物おやぢ
今まで、2度ほど鍋に戻し、お味噌、醤油、砂糖、鷹の爪(こちらは古いものを取り除き)を加えてトロリと煮戻し。
快調に使い続けています。
糠床のように朝晩かき回す必要もなく、タッパに仕込んだ味噌床を冷蔵庫に入れて置くだけ。

常に投入されている野菜はゴボウ。
生のまま投入して次の日からは美味しく食べられます。
消費量も多いので、頻繁に買い足してます。

次に多いのは大根とニンジン。
こちらは、一晩浅漬けにしたものを投入。
同じく次の日から食べられます。

で、最近新たに投入しはじめたのが割り干し大根。
20分ほど水で戻して投入するだけ。
これも次の日から、ポリッとした食感で予想以上にフレッシュな味わいで食べられます。

そろそろ、ナスやキュウリの季節ですかね。
フレッシュな、浅漬け生活もはじまる。o(^^)o

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アウトラインプロセッサ

昔、「ツリーバインダー」というシンプルで使いやすいアウトラインプロセッサを愛用していたのですが。
たまに保存したファイルが壊れることがあり、最近は、こちらもまたシンプルな「TreeDocPro」を使っていました。
なのですが、シンプル故にエディタ機能とカスタマイズ性が今ひとつで、いろいろ他を探していたのですが。
本日、ふたつのフリーソフトを発見。
どちらを常用にしようか迷っているところ。

ひとつは「Nami2000」。
「ツリーバインダー」にも似たシンプルさで、エディタ機能やカスタマイズ性も十分。
見た目も操作性も、ぼくの趣味にピッタリこん。
現在も開発が継続中ですし、ホントはこれで決定かと思ったです。

が、検索している内に、この「Nami2000」をベースに開発された「Kie」というアウトラインプロセッサを発見。
う~ん、数年前に開発は終了しており、作者さんHPも403アクセス不可ではありますが。
機能面では「Nami2000」よりぼく好み。

取り敢えず、「Kie」をメインにして使い、補助的に「Nami2000」も使ってみよかと思っているところ。
ファイルの互換性もあることですし。

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2006/04/19

武術書に見る「病を去ること」3

「願立剣術物語」服部孫四郎(江戸時代初期に活躍した松林左馬助無雲に術理を記したものと思われる)
NHK人間講座テキスト『「古の武術」に学ぶ』甲野善紀 2003.10 より
我総体の病筋骨の滞り曲節をけづり立ち、幾度も病をおびき出し、心の偏り怒りを砕き思う処を絶やし、ただ何ともなく無病の本の身となる也。
他人の病をよく知り、泥む処恐る処を我が身の如くあらわし、師其病を改める事。
師も本此の病を愁い我にある所をもって人を直し申す儀。

我が身総体の病である筋骨の滞りをすべての関節より削り落とし、深く隠れている病をも幾度もおびき出し、無意識の裡にある心の偏りや怒りを明らかにし、滞った思いの根源を絶やし、特別なことは何もない無病で無垢な本来の身となること。
他人の病をよく知り、澱む所や恐れる心を我が身のように明らかにし、師はその病を改める。
師もまた元はこの病を愁い、我が身にある病の経験により他人の病を直すのだ。


前回引用した「兵法家伝書」
病気に任せて、病気の内に交わりて居るが病気が去つたるなり。
上記が病から去る具体的方法論です。

そして、この病を去るコツを理解し、実践を深める道を
修行をもって心の玉を磨きて、汚れに染まぬやうにして、病に任せて、心を捨て切つて行き度き様にやるべきなり。
と「兵法家伝書」は語ります。


今回引用した「願立剣術物語」では、病を去るプロセスが述べられています。
筋骨の滞り曲節をけづり立ち
まず肉体的な滞り、緊張を解放し。

幾度も病をおびき出し
これは、おびき出すべき隠れている深層筋の滞りや緊張に加え、心の滞りや病をも指しているかも知れません。

心の偏り怒りを砕き思う処を絶やし
ここで当然のように心や感情の滞りに言及していますが、解説するまでもなく我々日本人にとっては身体の滞りと心の滞りは同義です。
身体の滞りを解消するということは、同時に心の滞りも解消するということになります。
「心の偏り怒りを砕く」為には「兵法家伝書」でいう「病気の内に交わりて居る」必要があります。
つまり「心の偏りの内に交じりて居る」「怒りの内に交じりて居る」こと求められる訳です。


宮本武蔵「五輪書」正保2年(1645)より
秋猴の身とは、手を出さぬ心なり。
敵へ入る身に、少しも手を出す心なく、敵打つ前、身をはやく入る心なり。
手を出さんと思へば、必ず身の遠のくものなるによつて、惣身をはやくうつり入る心なり。
手にてうけ合いするほどの間には、身も入れやすきものなり。
能く能く吟味すべし。

「秋猴の身(秋猴:手の短い猿)」とは、手を出さないという意味だ。
敵に我が身を寄せていく時に、少しも手を出す心はなく、敵が打ち掛かる前に我が身を素早く寄せていくこと。
手を出そうと思えば、必ず胴体は遠のくことになるので、総身をもって素早く敵の裡に移り入ることだ。
手で受け合いをする間合いであれば、身を入れるのも容易だ。
よく研究するように。

敵や対象を操作、除去、コントロールしようとする時、我が身を安全圏に置きつつ手先で扱おうとするのは、剣術に限らず多くの場面でみられるものです。
按摩や操体法でも、不慣れな人や下手な人は手先だけで相手に触れてしまいます。
按摩をする時は、実際に触れているのは母指だけであっても、触れている実質はお腹や胸、総身で触れていきます。
また、操体法で相手の動きに軽く抵抗を与えつつ付いていく時は、手で触れつつも相手の動きを丹田や総身で受けています。

手先だけで相手に入っていく時、実感を伴わない頭や考えだけで入っていこうとします。
総身で相手に入っていく時、実感そのもので入っていきます。
例えば、手先だけで按摩をしている人の動きや姿勢を見ると、胴体は相手の体から離れたまま手先と頭だけが相手の体に向かいます。
実感を伴わない考え、思考、頭=手先、ともいえます。

上で、病を去ることのコツは「病気の内に交わりて居る」ことである引用を示しました。
この去る対象である病、滞りに対面する際も、この「五輪書」の「秋猴の身」の秘訣が参考になります。
手先や頭、考えだけで「病気の内に交わりて居」ようとするのではなく、この総身により実感をもって「病気の内に交わりて居る」こと。
その具体的な方法を、今後いくつかアップ出来ればと思っています。

武術書に見る「病を去ること」1~4

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2006/04/17

武術書に見る「病を去ること」2

「兵法家伝書」柳生但馬守宗矩 寛永九年(1632)より

後重には、一向に病を去らんと思ふ心の無きが、病を去るなり。
去らんと思うが病気なり。
病気に任せて、病気の内に交わりて居るが病気が去つたるなり。
病気を去らんと思ふは、病の去らずして心にある故なり。
しからば、一円病気が去らずしてする程の事、思ふ程の事が着して、する事に勝利あるべからず。
如何んか心得可きぞや。

答へて曰く。
初重後重と二つたてたるはこの用なり。
初重の心持ちを修行して、修行積みぬれば、着を去らんと思はずして、ひとり着が離るるなり。
病気というは着なり。
仏法に深く着を嫌ふなり。
着を離れたる僧は、俗塵に交じりても染まず、何事をなすとも自由にして、留どまる所が無ひ者なり。
諸道の達者、その技々の上に付きて着が離れずば、名人といはるまじきなり。
磨かざる珠は塵ほこりがつくなり。
磨きぬきたる玉は、泥中に入りても汚れぬなり。
修行をもって心の玉を磨きて、汚れに染まぬやうにして、病に任せて、心を捨て切つて行き度き様にやるべきなり。

後の段階では、病を去ろうと思う心が一切無いことが病を去る秘訣となる。
去ろうという思いが病気なのだ。
病気に任せ切り、病気の内に溶け込むことが病気を去るということになる。
病気を去ろうと思うのは、いまだに病が心から去ってはいないからだ。
そこで、一向に病気が去らないままする事は、思いが心に留どまったままなので、事を達成出来るはずもない。
どのように心得るべきだろうか。

答えはこうだ。
第一段階、後の段階と、二つに分けたのはこのような理由だ。
第一段階の心持ちを修行し、修行を積んでいけば、心の留どまりを去ろうと思わなくても、ひとりでに留どまりから離れるようになる。
病気というのは心の留どまりだ。
仏法では執着を深く嫌う。
執着を離れた僧は、俗塵に交じっても染まらず、どんな事をしても自由に在り、留どまることが無い者だ。
諸道の達人で、その技の上に心が留どまって離れないならば、とても名人とはいえない。
磨かれていない玉には、塵やほこりが付く。
磨き抜いた玉は、泥の中に入れても汚れはしない。
修行によって心の玉を磨き、汚れに染まぬようにし、病に任せ切り、心を解き放って自由に生きるべきだ。

コメントは後日。

武術書に見る「病を去ること」1~4

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陰陽、四気の消長

陰陽の消長


陰陽、四気の消長



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2006/04/16

武術書に見る「病を去ること」1

「兵法家伝書」柳生但馬守宗矩 寛永九年(1632)より
(読みやすくするために、ひらがなを漢字に、また漢字をひらがなに代えた箇所あり)

勝たんと一筋に思ふも病なり。
兵法使はむと一筋に思ふも病なり。
習ひのたけを出さんと一筋に思ふも病、掛からんと一筋に思ふも病なり。
待たんとばかり思ふも病なり。
病を去らんと一筋に、思ひ固まりたるも病なり。
何事も心の一筋に、留どまりたるを病とするなり。
この様々の病、みな心にあるなれば、これらの病を去って心を調うる事なり。

「何事も心の一筋に、留どまりたるを病とするなり。」
こだわり、執着、思い込みを病だとし、これらの病、滞りを去ることが心を調え、融通無碍な働きをする為の基礎だと言っているようです。
これらの心の滞りは言葉にすると単純ですが、その実は奥深い根が縦横に張り巡らされていて、去ることは容易ではありません。
何しろ、心の病や滞りから去るには、自分の中にどのような病や滞りがあるのか実感として知らなくていけないのですから。

関係なさそうですが、以下は季節に応じた過ごし方を述べた、東洋医学の古典「素問」四気調神大論篇です。
個人的にとても気に入っている篇です。


春三月, 此謂發陳, 天地倶生, 萬物以榮, 夜臥早起, 廣歩於庭, 被髮緩形, 以使志生, 生而勿殺, 予而勿奪, 賞而勿罰, 此春氣之應養生之道也. 逆之則傷肝, 夏為寒變, 奉長者少.

春の三ヶ月間を発陳といいます。
(発陳:古いものから新たな生命が芽生える様)
天地が新たに生じ、万物が栄える時です。
夜は暗くなると共に寝、朝は早めに起きましょう。
庭をくつろいで歩き、髪をきつく結んだりはせず、衣服もゆったりとしたものを着たいものです。
心の内から自然に意欲が生じる時です。
諦めたり抑圧したり無視せずに、暖かく見守り育むようにしましょう。
これが春気に応じて生を育む道です。
これに逆らえば肝を傷付け、夏には冷えを招き夏気の恩恵を受け難くなってしまいます。


夏三月, 此謂蕃秀, 天地氣交, 萬物華實, 夜臥早起, 無厭於日, 使志無怒, 使華英成秀, 使氣得泄, 若所愛在外, 此夏氣之應養長之道也. 逆之則傷心, 秋為痎瘧, 奉收者少, 冬至重病.

夏の三ヶ月を蕃秀といいます。
(蕃秀:春に生じた陽気が溢れるように成長する様)
天地の気が交わり、万物は華開き充実する時です。
夜は暗くなると共に寝、朝は日の光を嫌わず日の出と共に起きましょう。
気持ちは伸び伸びと拡がるように開放的になっています。
華開くような気持ちや想いを押さえ込むと、その蓄積は爆発するような圧力(怒りなど)を生じさせてしまいます。
涼やかに発散的開放的に過ごしましょう。
もし外界に向かって気持ちが開かれ心惹かれるようであれば、これが夏気に応じた成長を育む道です。
これに逆らえば心(臓)が傷付き、秋に痎瘧(マラリアの一種)となったりエネルギーが収養するのを妨げることとなり、冬に至って病気が重くなります。


秋三月, 此謂容平, 天氣以急, 地氣以明, 早臥早起, 與鶏倶興, 使志安寧, 以緩秋刑, 收斂神氣, 使秋氣平, 無外其志, 使肺氣清, 此秋氣之應養收之道也, 逆之則傷肺, 冬為喰泄, 奉藏者少.

秋の三ヶ月を容平といいます。
(容平:おだやかにおさめる様)
天の気は勢い強く、地の気は清らかに鮮明です。
日暮れと共に寝、朝は日の出のニワトリの声と共に起きましょう。
秋の収斂するエネルギーは、頑固さやこだわり、後悔や反省する気持ちを促す傾向もあります。
紅葉を眺めながら澄んだ空気を味わうように、引き締まる気持ちや収斂する秋気を味わいながら過ごしましょう。
外界の変化に過度に囚われないようにし、肺の気が清らかであるように過ごせれば、これが秋気に応じた養収の道です。
これに逆らえば肺が傷付き、冬に食物の陽気が漏れて下痢をしたり、内に陽気を保つことが難しくなります。


冬三月, 此謂閉藏, 水冰地斥, 無擾乎陽, 早臥晩起, 必待日光, 使志若伏若匿, 若有私意, 若已有得, 去寒就温, 無泄皮膚使氣亟奪, 此冬氣之應養藏之道也. 逆之則傷腎, 春為痿厥, 奉生者少.

冬の三ヶ月を閉蔵といいます。
(閉蔵:陽気を伏蔵している様)
水は凍り大地は凍裂し、万物はみなその門を閉ざし陽気を内側深く胎養しています。
胎養している陽気を煩わせることがないよう、夜は早くから布団に入り朝はゆったりと遅めに起き、出来るだけ日光と共に生活するようにしましょう。
あたかも秘めたものを隠すような静かな気持ちで想いを温め、既にすべて達成したかのような満ち足りた心持ちで過ごしましょう。
汗をかいて皮膚から陽気が奪われないようにし、温かく過ごせば、これが冬気に応じた閉蔵の道です。
これに逆らえば腎が傷付き、春になって手足が効かなくなったり重ダルくなったり、陽気を生じ難くなります。


上記「四気調神大論篇」は四季に応じた過ごし方を記した、いわゆる養生法ですが、その記されている内容の多くが心の在り方だということに気づくはずです。
四季の移ろいはそのまま一日の朝昼夕夜に対応し、それは瞬間瞬間にも対応します。
この世の万物は常に移ろい、そのエネルギー状態も常に変化し続けています。
上に置いた絵は、それぞれの季のエネルギー状態を表していますが、ぼくたち人間の瞬間瞬間のエネルギー状態をも表します。
それは、体の感覚や気持ちや想いにも対応し、必ずしも四季のように順番に移行するとは限りません。
ですが、同じ状態に固定することは絶対にありません。
昼があれば、必然的にいつかは夜が来ます。


多くの人は、常に春や夏の状態でいることを望むようです。
いつも元気で明るく活動的、外向的。
たとえそんな状態ではない時でもそのように振る舞おうとし、いつの間にかそれが無意識のパターンとなっていたりします。

「何事も心の一筋に、留どまりたるを病とするなり。」

このような状態は、ひとつの病です。
心の一筋に留まることが無意識のパターンとなってしまうと、瞬間瞬間の自分の感覚が感じ取れなくなります。

「四気調神大論篇」の四つのエネルギー状態は、今自分の体はどのような状態なのか、自分の心はどのような状態なのかを理解する、ひとつの指針になると思っています。

武術書に見る「病を去ること」1~4

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2006/04/15

近代デジタルライブラリーが見やすくなった

国立国会図書館デジタルアーカイブポータル(ndldap) - プロトタイプ

昨日気がついたのですが。
国立国会図書館のデジタルライブラリーが格段に見やすくなりました。
今月から導入された(らしい)「JPEG2000表示」(要プラグイン)にすると、以前より格段に見やすいのです。
(ひょっとすると、ぼくが気づかなかっただけで、前からあったのかも)
以前は「古事類苑」の閲覧は本当に苦しく、読み取れない文字がいくつかあったのですが、この「JPEG2000表示」で100%まで拡大すれば読み取れない文字はないと思われます。

ダウンロードしても快適に閲覧出来るのですが……、前からこうだったのでしょうか。
あわわ。
「古事類苑」の必要な箇所は、これで全部閲覧出来ちゃいます。
感謝。(T_T)

有り難う>国会図書館

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「病」「病気」という言葉

「俚言集覧」(「諺苑」を基礎に江戸時代の方言・俗語・俗諺を集めた国語辞典ようなもの。)を調べていたら少しだけ記述が。
デジタルデータ→近代デジタルライブラリー

「やまひ」
・病足に腫足〔和歌民のかまと〕
  病足にハレ足〔爾雅釋訓〕
・病なをりて醫(くすし)忘る
・疾に主なし
・疾の入れ物はからだ
・病の生ずる多くは暑中に在り
・疾は口から入り、禍は口から出ず〔萬葉集五〕山上憶良
・疾は身のほうけ〔世話盡〕○病ホウケ
・疾て醫をしる〔左傳〕
・病身より見る目〔毛吹草〕病目よりみる目
・病目に茶を塗たやうなひより〔和歌民のかまと〕病目に茶を、塗りもせすくもりかちなるそら色はなかめかちなる宇治の山道
・病目につき目

「病足にハレ足」は、「弱り目に祟目」や「泣っ面に蜂」的な言葉なのでしょうか。

ところで「病目に茶を塗ったような日和り」って、どんな日和り?
その下の歌を適当に書き直すと。
「病目に茶を塗りもせず、曇りがちなる空色は、眺めがちなる宇治の山道」。
病目に茶を塗ってもいないのに曇りっぽい空色は……、て感じなのかしら。
てことは、「病目に茶を塗ったような日和り」って、曇ったくすんだ日和り、みたいなことか。

と、「病」という言葉を調べようと思った本来の目的から離れてしまったけれど。
面白いので、メモとして残しておくことに。

でも、ひとつ収穫。
「病気」という項目があり、これはちょっと本来の目的にかすっているかもです。

「びやうき」
・病気〔色道大鑑態藝門〕病氣偶人より出たる詞也病人の事に非ず、心にかかる事有て胸の落付かぬ貌(かたち)を云

「偶人」とは「木や土で作った人形。でく。ひとがた。」。

  • 「病気とは人形から出た言葉で、病人のことではない」。

もともとは人形に使う言葉だとして、人形のどんなことを指して病気といったのでしょう。
興味津々ながら、辞書類を見てもわからず、残念。

  • 「病気とは、心懸かりなことがあり胸の落ち着かないかたち、様をいう。」
これは、今読んでいる武術書の「病気」につながる意味なので納得。

病気とは、心懸かり、こだわり、執着。
また、無意識下に抑圧され開放されない、恐怖や怒りといった偏った感情、筋骨の滞り。

こう書くと、まるでニューエイジやセラピー、ボディーワークの話みたいですね。(^^)

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2006/04/14

武術書に「病をさること」を見る

ここ数日、同じ文章を繰り返し読んでいます。
古語辞典や漢和辞典、広辞苑等を引きつつ、繰り返し、繰り返し。
同じ日本語なので、ニュアンスは体感として何となく伝わるのですが。
それを表現しようとすると、やはりある程度思考で定義づけしていかなくてはならず。
そうする過程で、もわんとしていたものが徐々にだけれど明瞭になったりもし。
ん~。
楽しいですね。(^^)

読んでいるのは、ほんの四つくらいの段落。
柳生宗矩さんの「兵法家伝書」の三段と、甲野善紀さんが紹介している「願立剣術物語」の一段。
いずれも「病」「病気」に関する文章。
生死に望む術を解説する剣術の秘伝書が、いかに「病」を捉えているか。
そこには、既に技法やメソッドを超えた、日常座臥における「病を去った在り方」が示されている、と思います。
日本的秘伝は、技術論や論理をものともせずに、あっさりと日常化、現実化させてしまうところが特徴なのかも、と、門外漢は勝手に思い込んでみたりします。
なので、逆に。
その辺にぽろぽろとスンゴイ事が転がっていそうな予感。

あぁ。
「あっさりと日常化、現実化」と書いてみたら。
鍋島藩の「葉隠」を思い出してしまったですが。
ま、いいか。

ともあれ。
江戸時代の「思ふ」「念」という単語を、も少し整理して理解したい。
古語辞典や漢和辞典、広辞苑にはあたったので。
今度は江戸時代の国語辞典「俚言集覧」を調べてみよかと思っているところ。
「思い」「念」「考え」「病」などという言葉をどのように説明いるんだろか。
ていうか、それらの項目があればいいんだけど。

武術書に見る「病を去ること」1~4

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2006/04/13

空手の秘伝書探し遭難

「消息筋」シンガポール空手家一行の遭難騒ぎさんへのトラックバック

>残念ながら青森の山奥にいるのはイタコだけだ。
>(青森県出身者および青森県人の皆さん ごめんなさい)

残念ながら、イタコは普段山奥(恐山)にはいないのです。
正しくは、恐山大祭の時にのみ恐山の敷地に用意されたブースで営業しています。
と、青森出身者としては訂正しておきたい。

で、普段はどこにいるんだろ?
ん~。
各自の自宅でしょう、たぶん。

という、変なツッコミはおいといて。

ZAKZAK

マタギで知られる青森県西目屋(にしめや)村の白神山地近くで4日夜、シンガポールから来日した中国系武道家一族ら13人のうち男性3人が雪道に迷い、5日未明に弘前署に保護された。シンガポールで道場を経営していた武道家の遺族らで、「遺言で日本の空手の伝承者に会えと言われ、探しているうちに迷った」と説明しているという。

というニュースが数日前に流れており。
今日、朝のワイドショーでその続報をやってました。
どうやら伝承者が見つかった模様。
100%その伝承者であるかは不明ながらも、その可能性はかなり高いとか。
伝承者本人も、その秘伝書(外観のみ)もテレビに移ってました。

で、その伝承者。
北拳派中国空拳法の伝承者だったのですね。
ビックリ。
いや、高校の頃の不良友だちがその中国空拳法を習っておりまして。
その名称だけはよく耳にしていたのです。
懐かしい~。

ググってみたら、その伝承者の本もあるんですね。
既に絶版みたいですが。
福田祥円著、日貿出版社「ラッパ放浪記 格闘技への挑戦」~中国空拳法・荒修業で鍛えた20余年~
読んでみたいけど、ネット古書店で調べてみたら定価1300円が3000円になってました。高いなぁ

ちなみに、その中国空拳法。
サンロード青森(実家のすぐ近くじゃん!)内の「カルチャーセンター・RAB学苑」で教室もやってるのね。

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2006/04/10

独り按摩・頭部

taironさんという友人に「さらさらと」さする按摩を教えてもらって以来、実際の治療の中に「さらさらと」を取り入れはじめたり、テレビを見ながら自分で自分の体に「さらさらと」してみたりしていました。
いや、しかし。
自分でやる「さらさらと」、これがまた非常に気持ち良く、なおかつ効果的なのです。
「いつか、患者さん用にテキストでも作ろうかな」などと思っていた今日この頃、貝原益軒の「養生訓」をたらたら読んでいたら、とても似た導引按摩が紹介されており。
養生訓にあったものにぼくがやっていたものも加え、テキストもどきβ版を作ってみました。
興味がある人は是非やってみて下さい。
けっこうイケルです。(^^)

最終的には全身の独り按摩を作るつもりですが、取り敢えずは頭部だけでもアップしてみるテスト。
続きはいずれまた。


ここで紹介するのは、ディスプレイを長時間見続けた後のちょっとした休憩時やテレビを見ながらなど、気軽に出来るセルフ・マッサージ「頭部の独り按摩」です。
「独り按摩」は、古くは「導引」や「自行按摩」などとも呼び、ここでのやり方は江戸時代の貝原益軒による養生書「養生訓」に記されている導引按摩を参考に構成してみました。

最初は、実際に首や肩が凝った時にではなく、息抜きや休息時の慰安、リラクゼーションとして楽しんでみて下さい。
特に凝り感に悩まされていなくても、実際に独り按摩を行ってみると非常に気持ち良くなるのがわかると思います。
また、夜、テレビを見ながらでも独り按摩を行い、自分なりに気持ちの良い所を気持ちの良い程度にじっくりと行えれば、翌日の起床時にはいつもとは違った爽快感と共に起きあがれるのがわかると思います。

ここで行う独り按摩は、技術やテクニカルな部分にはまったく重きを置きません。
というより、按摩やマッサージに関する技術的なことはスッカリと忘れてしまいしょう。

ここでの一番大切なポイントは

  気持ちよさを感じること
  気持ちよさを味わうこと

これしかありません。
身体を揉みほぐしたり、撫でたり、さすったりすることが重要ではないことをしっかりと心に刻んで下さい。
働きかける対象は、身体ではなく感覚、これです。

もし独り按摩を行っていて、十全に気持ち良さが味わえれば、確実に心身はゆるみ、潤います。
もし何らかの痛みや症状があったとして、それらが緩解していくのが実感として理解出来るかも知れません。
まずは、気持ち良さを味わってみること。
そして気持ち良さを味わうことが、どのような結果を心身にもたらすのか、探求してみましょう。

繰り返しに為りますが、注意点、留意点をあげておきますね。

  • 1.独り按摩は治療ではない。

  • 2.身体を緩めようとしたり、揉みほぐそうといないこと。

  • 3.顔の部分を按摩する時は、乳液やオイルを使うと肌を傷めません。

  • 4.兎にも角にも気持ち良く行うこと。

  • 5.撫でる強さ、揉む強さもその時に一番気持ちの良い強さでおこなうこと。

  • 6.痛みを伴う按摩は絶対にしない。

  • 7.もし手順にある按摩が気持ち良くなかったり、不快、痛みを伴う場合は次に移りましょう。

  • 8.気持ちが良くて同じ部分をもっと行いたい場合は、満足するまで行って下さい。

  • 9.ここに紹介する手順は大まかな地図だと思ってください。地図を見ながら実際に自分の感覚を散歩しはじめたら、地図には書いていない気持ちの良さそうな場所があれば、積極的に足を(実際には手や指を)のばしてみて下さい。

以上のことに留意して行えば、たくさんの豊かな結果がついて来ますよ。(^^)

□□ 百会の按摩


頭のてっぺん(百会)に両手四指先の腹の部分を当てます。
指で頭皮をこすらないように、指先を頭皮に密着させたまま円を描くように頭皮をズラしましょう。
頭皮の遊びの範囲内で、出来るだけ大きくゆっくりと動かします。
右回し、左回し、3~4回づつ。


□□ 頭部をなでる


後:頭のてっぺんに両手の平を並べて置き、頭の後を撫でてゆき首の横から前の方に滑らせます。
3~4回。

 


横:頭のてっぺんに両手の平を並べて置き、頭の両側面を下に撫で下ろします。
3~4回。

 


前:頭のてっぺんに両手の平を並べて置き、頭から顔を撫で下ろします。
3~4回。

 


□□ こめかみと頭部の手櫛


こめかみに両手四指(または母指と小指を覗く三指)の指先を当て、後頭部まで櫛で髪をすくように滑らせます。
3~4回。

 


参考


耳の後に両手四指(または母指と小指を覗く三指)の指先を当て、頭の付け根(頭部基底部)部分を両手指が触れるまで横から後まで櫛で髪をすくように滑らせる。


□□ 目の周りと目頭をなでる(目に強い圧がかからないように、優しく)


眼窩の上際をなぞるように、中指で内側から外側に撫でます。
3~4回。

 


参考


目頭から眼窩の内側上縁を中指で掘るように滑らせます。
3~4回。

 


眼窩の下際をなぞるように、中指で内側から外側に撫でます。
3~4回。

 

10
尾翼際に示指と中指を並べて置き、頬骨の一番高い所まで撫でます。
3~4回。

 


□□ 耳の按摩

11
耳の付け根を示指と中指で挟み、上下に撫でます。
上下に撫でながら少しずつ挟んだ指を少しづつ耳先(顔から離れるように)にずらし、上下に撫でつつまた耳の付け根に戻るように繰り返します。
往復3~4回。

 


□□ 首の按摩

12
左手を首の後ろに回し頭の付け根部部に当て、手根(手の平の手首寄り膨らんだ部分)と四指先で首を掴むように揉みます。
一度掴むように揉んだら、手根部を首横(前側)にずらし掴むように揉み、次に手根部が首の前に当たるようにずらして掴むように揉みます。
これを3回~4回。

左手での按摩(この後右手で同様に按摩)

 

13
次に首に当てた手を少し下(頭から肩寄りに)にずらして、「12」と同様に3~4回行います。

14
「12」を同様に右手で3~4回。

15
「13」を同様に右手で3~4回。

以上で独り按摩、頭の部は終わりです。
やり足りない部分や、もう一度繰り返してみたい部分があればやってみましょう。
ただし、あまりやり過ぎないように。
多くやれば良い、というものでもないですから。
指針はあくまで自分の感覚。
「これで充分かな」と感じたら終了です。


□□ 終了の伸び

「あぁ、満足」と感じ、独り按摩が終了したら1~2度自由に気持ち良く伸びをしてみましょう。
これで効果が全身に浸透します。(^^)

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2006/04/09

無資格マッサージ問題・結論

無資格マッサージ問題・結論

インターネットを検索していくと、無資格マッサージ(民間療法)を法的根拠なく違法だと断定しているページがかなりありますが、ひとつ下の書き込みで見てきたようにそれは明らかに誤りです。

  • 民間療法(整体、カイロ、タイ古式マッサージ、アロマ等)を業とすることは、人の健康を害するおそれのない限度で認められているものである。
  • 該当する民間療法を違法とするには、その業務行為が人の健康を害するおそれがある旨立証しなくてはならない。

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2006/04/08

無資格マッサージ問題・まとめ

あれは確か2004年新年のことだったと思います。
新聞報道等で無免許マッサージ検挙の報道がぼちぼち見かけられるようになりしました。
実際の検挙は、マッサージ業務を行うマッサージ店で無資格のそれも不法就労の外国人従業員を雇っていた例が多かったです。

ところで、無資格マッサージとひと口いっても、その言葉の用いられ方や該当例がいくつかあります。

  1. あん摩マッサージ指圧業をあん摩マッサージ指圧師免許なしで行う
  2. あん摩マッサージ指圧業を鍼灸師または柔道整復師があん摩マッサージ指圧師免許なしで行う
  3. 民間療法業(カイロ、整体、タイ古式マッサージ、アロマ、リフレクソロジー、エステ等)をあん摩マッサージ指圧師免許なしで行う
  • 1.は、明らかな違法行為であり摘発対象となります。 あん摩マッサージ指圧、またはそれに類するかそれを連想させる名称で業務を行った場合、違法行為となります。
  • 2.に関しては、一般の人の関心を呼ぶことはほとんどなく、もっぱら同業者間で指摘や批判が行われるものです。 おそらく実際の摘発例はないのではないかと思います。

    あん摩師、はり師、きゅう師及び柔道整復師法(以下法という。)第一条に規定する行為の個々の具体的内容については法的に明確な規定がないが、法第五条に規定するあん摩師及び柔道整復師の施術は、法第一条との関係の下に夫々あん摩師及び柔道整復師の個々の業務範囲におけるものと思料されますが、柔道整復師が柔道整復行為を行うに際し、&color(brown){社会通念上、当然に柔道整復行為に附随すると見なされる程度のあん摩(指圧及びマッサージを含む)行為をなすことは差支えないと解してよろしいか。
    貴見の通り。

    上記引用は、柔道整復師が付随的に行うマッサージに関する厚生労働省への質問とその回答です。
    鍼灸師に関しても同様に考えて良いと思います。
    同業者間では感情的に納得しない人々もおり様々な議論がなされているようですが、公衆の利益に反するか否かという観点から見れば、実際に事故等の報告や経営上の違法性がない限りそれぞれの社会的良心に任せるということしか出来ないのではないかと思います。


  • 3.このページの最初に書いた2004年当時、この部分に関してはものすごく不明瞭にしか理解していませんでした。
    ぼく自身、マッサージ的手技を用いるボディーワークや国家資格のない治療法である操体法を行っている訳であり、友人の中にはあん摩マッサージ指圧師免許なしでそれらを行っている人もいます。
    2004年新年から突然増加したかのように見えた摘発例を目にし、法律や厚生労働省の通達、国会会議録を調べだしたのでした。

この無資格マッサージ問題は、実際に調べる以前はとても曖昧で玉虫色に見えたものですが、実際に調べてみるとかなりシンプルであることが分かりました。
ここに、その個人的に理解したことをまとめておきたいと思います。
もし間違いや曲解がありましたら、是非ともご指摘お願いします。

また、この問題に関しては、もともと鍼灸あん摩マッサージ指圧師の側からかなり感情的な反論があります。
しかし、ここにまとめていることはあくまでも「今の日本国ではどのように”あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律”が運用されているのか」を明らかにするのが目的であり、「法律をどのように運用、適用するべきか」といった鍼灸あん摩マッサージ指圧師的視点からの問題とは無関係であることをお断りしておきます。


法律と最高裁の解釈

第一条、第十二条

  • 第一条
    医師以外の者で、あん摩、マツサージ若しくは指圧、はり又はきゆうを業としようとする者は、それぞれ、あん摩マツサージ指圧師免許、はり師免許又はきゆう師免許(以下免許という。)を受けなければならない。

  • 第十二条
    何人も、第一条に掲げるものを除く外、医業類似行為を業としてはならない。
    ただし、柔道整復を業とする場合については、柔道整復師法(昭和四十五年法律第十九号)の定めるところによる。

上記が「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律」(以下あはき師、あはき法という)の第一条と第十二条です。
このふたつの条文だけを見れば、医師、あはき柔師以外の人が医業類似行為(各種民間療法を含む)を業とすることは違法だと考えると思います。
実際、このあはき法が制定された敗戦直後の昭和22年、免許制とすることで当時広く玉石混淆状態で行われていた様々な療術行為を排除するのも目的のひとつでした。
ですので、この十二条は必須条文だったのでしょう。
ですが、この13年後の昭和35年、最高裁判所で画期的な裁定、法解釈がなされます。

昭和35年最高裁判決

訴えは、HS式無熱高周波療法という療術があはき柔法違反とされた事に関して
「HS式無熱高周波療法は有効無害かつ公共の福祉に反しないので、これをあはき柔法違反とするのは、そもそもあはき柔法が憲法二十二条に違反する無効な法律なので、禁止処罰することは出来ない。」
という上告です。
(第二十二条【居住・移転・職業選択の自由、外国移住・国籍離脱の自由】
 1.何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。)

これに対して最高裁は上告を棄却。
その要旨は

  • 一.あん摩師、はり師、きゆう師及び柔道整復師法第一二条、第一四条が医業類似行為を業とすることを禁止処罰するのは、人の健康に害を及ぼす虞のある業務行為に限局する趣旨と解しなければならない。
    (第一四条:違反行為に対して定める刑罰)

  • 二.右のような禁止処罰は公共の福祉上必要であるから前記第一二条、第一四条は憲法第二二条に反するものではない。

まとめると

あはき柔以外の医業類似行為は、人の健康に害を及ぼす虞のある業務行為に限局して禁止処罰する

ということであり、

人の健康に害を及ぼす虞がない限り、医業類似行為(民間療法)等の業務行為を行ってもよい

ということになります。
そして、この最高裁判所の判決、あはき柔法第十二条の解釈が、現在まで日本国のあはき柔法解釈や運用として続いています。
これだけでも十分納得出来かつ明解なものではあるのですが、社会通念や世相からかあはき柔以外の医業類似行為や民間療法は法的にグレーな衣を纏っていた印象があります。

とはいえ、上記最高裁判決の影響は確実に反映されていきます。
あはき柔法ではその業の目的を問わずあん摩マッサージ指圧行為は違法行為とされる訳ですが、オイルマッサージ(最も”あん摩マッサージ指圧”中の”マッサージ”に該当する)をその主業務とする美容目的のエステティック産業は、あはき柔法に問われることなく(その議論さえ生じず)急成長し、今や一大産業として成立しています。
このこと(エステティック業があはき柔法と無関係に許容されている)は、国民にとって今や常識でありひとつの大きな社会通念となっています。


民間療法の積極的容認

上記昭和35年(1960)最高裁判決からの20世紀の間は、国はあはき柔以外の医業類似行為、民間療法に関して明確に言及することはありませんでした。
しかし、21世紀を迎えて国の法解釈や運用はもう少し積極的なものとなっていきます。
厚生労働省は平成15年(2003)4月、「内閣府ホームページ」内の国政モニター「お答えします・介護と整体治療」という中で整体、カイロという具体的名称をあげたものを公開しています。

「整体治療」や「カイロプラクティック」については、その医学的効果について科学的評価が未だ定まっていないことなどから国家資格とはなっておらず、いわゆる民間療法として、人の健康に害を及ぼすおそれのない限度で施術を行うことが認められているものです。

これまであはき柔以外の医業類似行為や民間療法に関して明確に言及してこなかった国は、ここで「整体とカイロプラクティックは業として行うことが認められている」ものとして明言しています。
また同じ年の11月には厚生労働省から以下の通達も出ています。

施術者の体重をかけて対象者が痛みを感じるほどの相当程度の強さをもって行うなど、あん摩マッサージ指圧師が行わなければ、人体に危害を及ぼし、又は及ぼすおそれのある行為については、同条のあん摩マッサージ指圧に該当するので、無資格者がこれを業として行っている場合には、厳正な対応を行うようお願いする。

これは、あん摩マッサージ指圧の定義に関するものですが、わかりやすくまとめると以下のようになります。

人体に危害を及ぼし、又は及ぼすおそれのない行為は、あん摩マッサージ指圧に該当しない

要するに、昭和35年最高裁判決の

人の健康に害を及ぼす虞がない限り、医業類似行為(民間療法)等の業務行為を行ってもよい

上記判断を、あん摩マッサージ指圧業に当てはめて再確認したものと思って良いでしょう。

ここまで書いてきて思うことは、こういった認識は当のあはき柔師には納得しにくいものだろうということです。
あはき柔学校では、医事法規であはき柔法は教えますが、その法解釈や運用状態についてはまったく触れられないからです。
そのあはき柔法解釈はあくまであはき柔師側から見た、ガチガチの法律そのものであり、最高裁判決や社会通念、世相が考慮されていないものです。
法律や業界の職域だけを見るのではなく、現実を確認し受容した上で公衆の利益を考慮し、法や行政のあり方を議論していけると良いのですが……。

ともあれ、近年の国の姿勢は上記にまとめたようなものです。
これは、先に書いたエステティック業が許容されてきた歴史に加え、最近のリラクゼーション業の増加による影響が強いと思います。
高度に情報化しストレスに満ちた現代社会にあって、多くの人がリラクゼーション業で提供されるものを求めているのはごく自然なことでしょう。
それには、リラクゼーション目的のマッサージも含まれています。
(タイ古式マッサージ、アロママッサージ、ロミロミ、リフレクソロジー等)
美容目的のオイルマッサージであるエスティックが許容されてきたように、目的によってはマッサージを業務として行ってもよい旨、法律を改めるべき時がきたのかも知れません。

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